早春のトレセン訪問
ついこの前まで肌を突き刺すように冷たかった風がいつの間にか和らぎ、通勤時に見慣れていた冬場独特のフィルターを通したようなくぐもった景色が澄んだ自然色へと変化してきたのがなんとも嬉しい。日本の四季のなかでも私がいちばん好きなのが早春のこの時季で、この気持ちは北日本で生を受けたことによって育まれたもののようだ。地球温暖化が訪れる遥か以前、私が少年時代に過ごした故郷は年間の三分の一が雪に覆われたまま。冬が大嫌いだった私は毎年春がやってくるのを首を長くして待っていた。どこまでも白一色に埋め尽くされた冷たい大地にふきのとうが顔をのぞかせるともうそれだけで幸せを感じたものだが、その感覚は50年が過ぎて関西に永住しようと決めたいまもほとんど変わっていないのが面白い。
「いつ以来かな、会うの。まずはG1制覇おめでとう。凄い馬育てたな」 「20年ぶりぐらいちゃうかな。わざわざ顔を出してくれてありがとうございます」
2月24日の午後、今年初めてトレセンへ。まずはエスポワールシチーの竹垣喜利厩務員への祝福からスタートした。前夜に「たしか大阪の○○高校野球部OBだったよな」「ちゃいます、△△高校ラグビー部。前にも間違ってましたよ」と間抜けな電話をしたばかりだが、直接顔を合わせるとやはり懐かしい。私の担当厩舎に新人として彼がやってきたのが30年前。歳は私がひと回り上だが、明るさ、気風のよさが気に入ってよく会話を交わした。当初は若者独特の感性で突っ走って次々と壁にぶち当たっていたが、いまやベテランとして厩舎を支える存在。ライターさんからエスポワールシチーの担当者を取り上げたいと申し出があったときは一瞬考えたが、人間臭く型破りなドキュメンタリーも面白いかと思って即決した。その分、山ほどある彼の武勇伝をここで暴露できないのは残念な限りだが、それは週刊競馬ブック3月8日号でご覧いただくことにしよう。気性の激しい愛馬をどんな風にしてG1ホースに育て上げたのか興味のある方は是非目を通して欲しい。
それから数軒の厩舎を回って最後に足を向けたのは角居勝彦厩舎。まずは調教師にアポも取らずにお騒がせする非礼を詫びつつ訪れた理由を説明。それからお目当ての人物と会話を交わした。
「ずっと知らん顔してて申し訳なかった、健ちゃん。私に一体何ができるのかって考えると、動こうにも動けなくなって……。大変だったな。元気に活動を始めたって聞いたら顔を見たくなった」 「馬乗りしか知らなかったから、いざ馬に乗れなくなったときは何も考えられなくなって……。キツかったです。でもこうしてまた馬と関わり合う仕事ができるようになったことに心から感謝しています」
福留健一クン(40歳)は元調教助手。最後に会話をした記憶があるのは1997年春の天皇賞当日。普段から稽古をつけているマヤノトップガンが劇的な勝利を収めたときに遡る。検量室に引き上げてくるトップガンを迎えに出た彼に「おめでとう、健ちゃん。苦労が報われたな」とひと声掛けた瞬間、こらえ切れずに大粒の涙を流した姿はいまも克明に覚えている。達者な馬乗りであるだけでなく性格も明るく素直。みんなに好かれていた。私のなかでは先々はいい調教師になるだろうとその存在を認めていた人間のひとりである。
一昨年秋、調教中にひどい落馬事故があったと聞いた。つらい話なので詳細を聞かずに済ませたが、事故に遭って車椅子での生活を余儀なくされたのが健ちゃんだと後日に知った。馬乗りしか知らない人間が馬に乗れなくなったときの気持ちを考えると胸が詰まった。職場復帰もままならない状況に追い込まれた彼は絶望の底で自殺を考えたというが、その心理は痛いほど判る。そんな彼に手を差し伸べたのが角居調教師だった。“障害者乗馬”のネットワークづくりを始めた同師はその事務局活動を健ちゃんに依頼したのだ。“レースで結果を出せず行き場を失くした競走馬で人の心や体を癒したい”とする調教師と“障害を持つ人たちの役に立ちたい。そして、もう一度馬と関わり合いたい”とする元調教助手の気持ちがひとつに結ばれた。
“障害者乗馬”の事務局はつい最近発足したばかり。今後活動の輪を広げるためにはたくさんの人々の賛同や理解が必要となってくる。それだけにことが順風満帆に進むだろうと楽観はしていないが、少なくとも私でできることがあるとすれば協力は惜しまないつもりでいる。別れ際に「乗馬でパラリンピックに出るつもりなんです」と私に伝える健ちゃんの目に力が感じられたのがなによりも嬉しかった。
競馬ブック編集局員 村上和巳