黒のレザーキャップにGジャン、それにウエスタンブーツを履いて準備完了。誰が見ても怪しいだけの中年オヤジといった風体だが、そんなことはお構いなく家を出たのは午後2時。向かおうとしているのは大阪道頓堀である。“ミナミ”に行くのは今年の春に執筆者の方と会って以来で、その時は本町、心斎橋を徘徊したが、今回行くのは道頓堀。つまり旧GateJ.から徒歩で数分ぐらいの距離にあるわかりやすい場所だが、何度も書いているように激しい方向音痴の私。知人に場所を聞いてネットでも位置を確認。自信満々に外出した。
電車を乗り継いで心斎橋へ。少し早めに着いて昔馴染みの場所を歩いた。そごうが姿を消したのは知っていたが、ぶらっと入ったPARCOの変貌にも驚かされた。1970年はじめにファッションビルとしてオープンする際には知人に頼まれて私もアルバイトとして参加。エレベーターボーイから西武直営店の業務アシストまで様々な仕事をこなした。私には不似合いな空間だったが、若者特有の好奇心に任せた耽楽的な日々を送るには手頃だった。久々に足を踏み入れた場所は1階から6階までがロフトで、上のフロアは楽器店、ライブスポット。まったくの異空間になっていた。時代の流れといえばそれまでだが、年甲斐もなく少々感傷的になった。
心斎橋筋を南下して道頓堀へ向かおうと外に出てビックリしたのは人間の多さ。人、人で舗道が埋め尽くされて前に進めない。考えてみるとこの日は祝日で、場所柄もあってか、若いカップルや女性グループばかり。これでは埒があかないと横道に入って人込みを避け、宗右衛門町方面を目指す作戦。途中で何度か入ったことのあるバーの前で立ち止まると、入り口に“禁煙酒場”と書かれた紙が。つくりや雰囲気が気に入っていた店のひとつだが、禁煙になってはもう足を運ぶ機会もない。知人がやっていたCDショップが今年の春で店を閉じたことでもあり、今後はこの界隈に足を向けることが少なくなりそうだ。
遠回りして目的地近辺に辿り着き、記憶をたぐり寄せて最終チェック。労せずお目当てのビルの前に立ったところまではよかったが、店舗にはシャッターが下りたまま。はるばるやってきはしたが、残念ながらこの日は休業していた。業務なら確実にアポを取るが、今回はあくまでプライベート。訪問先に必要以上の気遣いをさせたくないとの思いだけでなく、外出すると風に乗った風船のように流れるまま、気のままに行動する私。意図的に連絡を入れなかったのだが、それが裏目に出たことで一気に暇になってしまった。
帰路は地下鉄には乗らず、難波から心斎橋、本町、淀屋橋へと御堂筋線に沿って歩いて北上した。若い頃から歩くのは苦にならず、新宿から東京駅まで、百万遍から京都駅までといろんな街を歩いた。考えてみると、最初に大阪へやってきた頃にも難波から梅田までよく歩いた。当時交流のあった同郷の友人とミナミで酒を飲み、終電もなければ財布に金も残っていないため歩くしかなかった。彼は歩きながら酔いを振り払うかのように「これからはFMの時代」と主張。開局間近で試験電波を流しているFM大阪への就職を望んでいた。私は漫然と競馬と音楽に浸るだけの毎日だった。その翌年の春、希望が叶わなかった友人は大学を出ると北海道に帰って地元の市役所職員になった。帰るべき場所のない私は相変わらずの生活を続けるしかなかった。
風の噂によると、その友人は故郷の街の市役所で地域振興を担当して企業誘致や新たな産業の育成に腐心しているとのこと。一方の私はというと、生活の基本スタイルは当時とほとんど変わっていない。ここまでの人生でひとつの節目となった時期に「あなたはなにをもって社会に寄与するつもりですか」とある人物に尋ねられた。言葉に窮しつつも「競馬の素晴らしさを社会に発信したいと考えています」と答えたところ、相手は黙してそれ以上はなにも語らなかった。私にとってはかなり厳しい会話だったが、粉飾せず本音を語るのが相手への誠意だと考えていた。難波から梅田まで歩いている間に久しぶりに当時の記憶が甦った。
競馬ブック編集局員 村上和巳