『トライアルが華やかだった頃』
今年も熱戦が続く春競馬ですが、舞台は今週から東京へ。この東京では開催を跨いでG1が5週間続くことになります。そのG1シリーズに先駆けて行われるのが、オークストライアルのフローラSとダービートライアルの青葉賞。今回は牝馬同士の一戦、フローラSにスポットを当ててみたいと思います。 まず、レースの歴史を振り返ってみると、創設されたのは1966年(昭和41年)。当初からオークストライアルとして、本番への出走権が設けられた重賞でした。1984年(昭和59年)のグレード制導入に際してはG2に格付けされ、1987年(昭和62年)には距離が芝1800mから芝2000mへ。更に、1991年(平成3年)にはオークスの優先出走権が上位5頭から3頭に縮小。そして、最も重要な転機となったのが2000年(平成12年)。この年から日程が1週繰り上がって、桜花賞からの間隔が中2週から中1週へと短縮されたのです。翌2001年(平成13年)には30年以上続いた「4歳牝馬特別」という無味乾燥なレース名が、「フローラS」と改称されました。 こうして、オークストライアル・フローラSは現在に至っています。
▼ターニングポイントは2000年 ところで今も述べた通り、このフローラSの大きなターニングポイントとなったのは2000年(平成12年)。この年、桜花賞との間隔が中2週から中1週へと縮まった訳ですが、これによってメンバー構成が一変。それまでとは“まったくの別モノ”といってもいいレースへ大きく変貌を遂げました。それを如実に物語っているのが、まず、このレースにおける桜花賞組の出走数。手持ちの資料と時間の都合で1975年(昭和50年)以降のデータとなりますが、これを以下に示してみると……。
<桜花賞組の出走数>
ご覧のように、僅かな例外を除くと、1999年までのトライアルでは毎年3〜8頭の桜花賞組の出走が見られました。結果を見ても、桜花賞→オークストライアル→オークスと3連勝したメジロラモーヌ(1986)とマックスビューティー(1987)や、桜花賞→オークストライアルを連勝したリーゼングロス(1982)とアラホウトク(1988)をはじめ、桜花賞組からは計14頭のトライアル優勝馬が誕生しています。かつて待機組が優位に立っていた時代(1970年代)もありましたが、総括すると、オークスに向けて桜花賞上位馬が改めて力を試す。そこに新勢力がどこまで食い込めるか≠ニいう構図がかつてのトライアルには存在していたのです。 ところが2000年以降を見ると、桜花賞組の出走は14年間で僅かに11頭。桜花賞馬の参戦は一度もなく(桜花賞馬として最後に参戦したのは前述のアラホウトク)、桜花賞入着馬の参戦も2007年のイクスキューズただ1頭(桜花賞D→トライアルB)。このように、オークストライアルは桜花賞とはほぼ無縁のレースになったのです。
そしてもうひとつ、このオークストライアルにおける1勝馬の出走数の推移を見てみると……。
<1勝馬の出走数>
1999年以前では1勝馬の出走が二桁に達したことは皆無。逆に、2000年以降で1勝馬の出走が二桁に達しなかったのは、その2000年の一度きり。日程変更翌年の2001年からは1勝馬の出走が例外なく10頭を超えています。メンバー構成が大きく変わったことは、このデータからも瞭然。 このように数字で示してみると、かつてのオークストライアルが今より華やかだったことは間違いない事実。勿論、昔のデータを引っ張り出してきて、「昔は良かった」といった話をするのがこのコラムの主旨ではありません。桜花賞組、すなわち既成勢力に対抗し得る新たなヒロインの登場を期待するのが現在のトライアル。それはそれで、以前と違った魅力があることは間違いないでしょう。 ただ、メンバー構成がここまで大きく変わってくると、果たしてこのレースにG2の格付けが必要なのか? その点に議論の余地は生じてくるはず。出走馬全体の約70%を1勝馬が占め、その1勝馬の優勝が14年で9回。そんなフローラSがG2なら、毎日王冠や阪神大賞典も同じG2戦。3歳戦と古馬戦は単純に比較できない部分もありますが、ならば、毎年のように阪神JF組が主力を形成するチューリップ賞がG3であることと照らし合わせ、このフローラSのG2という格付けが果たして妥当なのかどうか……。 昇格することはあっても、降格することはほとんどないのが日本のグレード制。しかし、せっかくのグレード制がその権威を保ち続けるためにも、現在の格付けが妥当か否という検証はすべてのグレード競走において常に為されるべき。このフローラSの歴史がそう語りかけているような気がします。
美浦編集局 宇土秀顕