『それぞれの秋』
季節の中で、“深まる”と表現されるのは秋だけです。なるほど気候的には似たところのある春にも使いませんし、深まったらうんざりしそうな夏にも、また、深まるなんて表現じゃ甘っちょろいことになりかねない冬にも適当じゃない感じがします。 やっぱり山々の紅葉とか、我々が身につける物の色合いもだし、暖かい印象を与える色彩的な移ろいが“深まる”感じにしっくりくるんでしょうか。徐々に空気が冷えていく感じとか。 清少納言嬢の、かの枕草子でも「秋は“夕暮れ”」でした。夕焼けをイメージして、赤とんぼだなあ、なんてことを想像すると“深まる”につながっていく感じがあります。 ともかくも、です。こんな物思いにふけるのが秋、という言い方は確実にできるのではないでしょうか。
単純に秋を表現する言葉、というなら、それこそ他にもいろいろあります。定番なところで『スポーツの秋』に『食欲の秋』。馬絡みでは『馬肥ゆる秋』ってのもあります。これらには“動”の印象がありますが、一方で『芸術の秋』とか『読書の秋』は“静”の印象になりますか。いずれにしても、活動的かつ創造的であることは共通するようです。 この中で、自分的に顕著なのが『読書の秋』。 すべての『〜の秋』について異論はないのですが、夏の後、ということだけに意識を向けると、やっぱり突然、書籍を読みたくなる。なかなか盛夏の夜更けに、「部屋でじっくり読書など」とは思いにくいもので……。こんなことを言うと、読書好きの友人に怒られるかもしれないけど。
ある日、その読書好きの友人からメールが来ました。 「最近、『デミアン』にはまってる」 と。 その友人がどの程度の読書好きかというと、部屋が手狭になって、押入れにあった書籍を処分した時の数が3000冊!というのです。無論、漫画の単行本の類はなく、です。 なかなか一般の家庭に3000冊はないんじゃないですか。処分せずに残した物も当然あるわけですから、実数はもっと、ということになりますしね。 ともかく、そういう相手なので、おそらく最近の作家さんが『デミアン』という作品を書いたのだろうと思い、 「『デミアン』と言えば、ヘルマン・ヘッセの物しか思いつかないなあ」 なんて送り返すと、 「まさにその『デミアン』。今読んでも名作というのは味わい深い」 との返事が。
そういうやりとりをした数日後、高校時代の友達が数年ぶりに東京競馬場にやって来たのです。顔を見るなり、 「お前、これ読んだことあるか」 と渡されたのがボロボロになった新潮文庫。 『荒野のおおかみ』 でした。 ロックの名曲「Born to be wild」はよく知られていますが、それを世に送り出したステッペン・ウルフというバンドが、この『荒野のおおかみ』の原題から命名された、というのはあまり知られてないのかもしれません。 ともかく、先の『デミアン』に続いて、何と言う偶然なんだ、と呆然としつつ、 「新潮文庫のヘッセは、何作かを除いてほとんど読んでるよ」 と答えたのですが、「今読んでも物凄い。いや、この年齢になったからこそ、かもしれん」なんて言われても、どうにも結末を思い出せず、気持ちに収まりがつきません。それでボロボロの文庫を読み返すことになったのですが、はっきりわかりました。高校時代の自分がいかに根気がなかったかを。いや途中で読むのをやめてしまっていたのです。 しかし読み返してみて思ったのは、先の友人2人の言葉そのまま。 「名作はいつ読んでも味わい深く、そして年齢を追う毎にその味わい深さを増す」 ということ。 白状すると、ヘッセや、そうですねえ日本の作家では太宰治とか、は、あるタイミングで読むのが最も心や脳に浸透しやすい、というように考えていたところがあったのです。でも、ここにきて必ずしもそうではないな、と思うようになりました。それだけでも、大きな発見があった秋、と言えるかもしれません。
ですからね、こんなことを考えて、やたら物思いにふけってしまうのが秋、なんでしょう。 まあ私の場合「そうなんだよなあ。何でこれまで読んでなかったんだろって本、ヤマほどあるよなあ」なんてこと年中あるのですが、それが猛烈に頭を支配し始めるのが、秋、ということになるんでしょうか。 今年、JRAで展開されている近代競馬150周年記念事業。その中の『競馬を愛した人々』で、競馬に造詣の深かった作家・文化人が紹介されています。それがまあ、よく知っているのは数人ほどで、他の先達については嫌になるほど押さえ切れていない。何やってたんだか、本当に。 いや、悔やんでいる場合じゃない。沈んでいても始まらない。一歩一歩、焦らずに、自分のペースで見聞を広めていくことにしよう。 ん?この感じは“秋”っぽくはなかったかな?
美浦編集局 和田章郎