『崩れゆく遺構』
昨年の有馬記念終了後、ジンワリと年の瀬を感じながら、しみじみと書いた前回のコラム。それが、年が明けてからも実に11日間も、しみじみとホームページ上に残ってしまいました。正月のおめでたい空気の中で……。何とも間の抜けた話(笑)。 さて、気を取り直して本題ですが、競馬の方は既に正月開催が終了し、寒さが身にしみる1回東京開催に突入しています。開催の目玉となるのは勿論、最終日に組まれているフェブラリーSですが、その前哨戦となるのが先週行われた根岸Sでした。
▼東雲は根岸から ところでその根岸S、今年は“近代競馬150周年記念”なるサブタイトルを冠しての施行でした。JRAの特設サイトによると、横浜の居留外国人により競馬が始まったのが今から150年前の1862年のこと。時は徳川治世の最末期。江戸では坂下門外の変、京都では寺田屋騒動、そして横浜の地でも生麦事件が起きるなど、明治維新へ向けて世の中が大きく動いていた頃でした。眼下に横浜の海を見下ろす根岸の高台。そこに本格的な競馬場が建設されたのは居留民競馬が始まって4年後のこと。まさに近代競馬の東雲を告げる役割を果たしたのが、この根岸競馬場だったわけです。 その根岸で競馬が始まって間もなく大政奉還を迎えます。そして維新後、新政府の重鎮が“外交交渉の場”としてこの根岸競馬場を利用したのは有名な話。当初、居留民によって運営されていた競馬は、時代を経て日本人も参入するようになり、1905年(明治38年)には、天皇賞(旧帝室御賞典)の前身であるエンペラーズカップがスタートしました。また、現在の皐月賞の前身である横浜農林省賞典4歳呼馬が創設されたのも、この根岸の地。こちらはずっと時代が下って、1939年(昭和14年)のことでした。 しかし、隆盛を極めた根岸競馬も太平洋戦争の戦局悪化にともない、1942年(昭和17年)の開催を最後に休止に追い込まれました。帝都・東京湾の玄関口であり、横須賀港を見下ろすという軍事上の要衝だったことから、根岸競馬場は旧帝国海軍の手に渡り、終戦を迎えると、今度は占領軍によって接収されます。その後、1969年にコース跡地のほとんどが返還、1982年にはスタンド施設も返還されましたが、競馬の再開が叶うことはありませんでした。こうして長い歴史が刻まれてきたスタンドを残したまま、競馬場跡地は森林公園として整備され、現在に至っています。
かつて二等スタンドが建っていたあたりから、現存する一等スタンドを見上げる。
▼片翼を失う
いい機会でもあり、久しぶりにその根岸を訪れてみました。最初にこの根岸の競馬場跡に足を運んだのは、今から30年ほど前の大学生の頃。JRの根岸駅を降りて高台へと続く坂を登り、あの有名な“山手のドルフィン”を通り過ぎてすぐ、根岸の森の中から姿を現したのが、1930年に木造スタンドから立て替えられた鉄筋の洋式スタンド。半世紀の歴史を静かに語りかけてくるようなその威容に、ただただ、圧倒されたものでした。そして、2度目が20数年前、競馬ブック入社直後のこと。しかし、この時は風化が進んだスタンドの一部(二等馬見所)が解体された直後。片翼を失ってしまったかのようなその姿に、寂しさとも怒りともつかない感情が沸いてきたことを思い出します。 このスタンドは“廃墟”でしかないのだろうか?“崩れゆく遺構”を目の当たりするのも忍びなく、自然と足が遠ざかっていた根岸の地。しかし、20年数年ぶりに訪れてみた今回、根岸のスタンドは時代の流れに抗うかのように、威風堂々たる姿を見せてくれました。
公園とスタンドの間にだけ米軍施設が残り、真正面から近づけないのが難点。あれこれと試みたものの、この角度からの撮影が精一杯。同行していたヨメが、検問ゲートで「入れて」と直訴に出ようとしたので、慌てて止める。
▼残るのは名前だけ?
それでも気にかかるのはこれからのこと。“根岸”をレース名とするも良し、そこに“150周年〜”のサブタイトルをつけるも良し。しかし、現実に存在する根岸競馬場跡の扱いは一体どうなのか?まさに文化遺産と呼ぶに相応しい威容を誇りながら、このスタンドは風化するに任せ、崩れるに任せ……。“根岸”を守るべきは果たして誰なのか?? 後世に残るのが“根岸”の名前だけだとしたら、あまりにも淋しい話ではありませんか。 まあ、それはともかくこの根岸競馬場跡、一見の価値があることは保証します。前述のとおりJR根岸線の根岸駅で下車し、そのまま15分ほど坂を上がればもう目の前(バスも出ていますが)。周りには他に観光スポットが盛りだくさん!ちなみに、私が住む茨城県稲敷市からだともう完全な小旅行になり、真っ直ぐに帰るのは実にもったいない話。そこで、森林公園から港のみえる丘公園、山下公園経由で赤レンガ倉庫まで散歩して、中華街ではヨメに美味い料理をご馳走。そのまま神奈川県内で一泊して、翌日は雪の丹沢塔ノ岳にひと登りしてから帰宅した次第。いろんな意味で「おのぼりさん」を実践してみた2日間でした。
美浦編集局 宇土秀顕