奇妙な関係
競馬ブック栗東編集部には年間かなりの数の投書やメールが寄せられる。その内容は小社に対する要望が大半で、他にも批判、激励、感想といったさまざまなご意見が届けられる。スタッフが手分けして目を通し、必要と判断したものには返事も差し上げている。その昔は「予想通り買って損した。どないしてくれんねん」といった予想に関するものが多かったと聞くが、競馬の認知度が高まるにつれてその内容も徐々に変化。最近は新聞紙面の記事配分についての要望が多い。調教、血統、厩舎情報、データ分析と様々なファクターがあり、どのファクターを重視するかは個々のスタンスが違うのだから、すべての読者に満足してもらえる対応は難しい。社としての基本方針を伝えつつ、寄せられたご意見は今後の紙面づくりの参考にしている。
新聞、週刊誌に対する要望以外で目につくものに売り込みがある。1ヶ月前にも「上半期のG1レース全勝。すべて3連単で本線的中。私の予想を買いませんか」との手紙が届いた。「“すべて3連単で本線的中”なら黙って自分で馬券を買えば十分儲かるはず」とスタッフのひとりが呟く。同感だが、この手の売り込みも定期的にある。最近社内で話題になったのは“不幸な手紙”というタイトルの投書。要するに“当たらないこと”が売りなのだ。「昨年のG1レースは全敗でした。今年の上半期も全然当たっていません。私が本命にした馬は絶対にこないのです。この情報を活用すればブックの的中率は間違いなくアップします」というのが結び。ここまでくるともう受け狙いかと笑ってしまったが、いろんなファンがいらっしゃるものだ。
一昨年の春だったと思うが、『賭博/偶然の哲学』という一冊の本が送られてきた。知人がいる出版社でもなければ送られてきた理由の明記もなく、著者の名前も存じ上げない。戸惑いながらも休日の夜にパラパラとめくったところ、冒頭の競馬についての洞察はなんとか読破できたが、そこからはドゥルーズ、九鬼周造、フーコー、ドストエフスキーと続く。早々にギブアップして半年間放置していた。その年の暮れに読み直しにかかったが、私には難解すぎて前に進まない。実存主義について研究していた友人からキルケゴール関連の書籍を借りながら投げ出した若い頃の苦い記憶が甦ったが、1週間かけてなんとか読み終えた。正確に言うと読み終えたというのは誤りで、内容を理解できないまま活字を拾う作業を繰り返してやっと最終ページにたどり着いたのが実態。我ながら情けなかったが、競馬を扱った文章からは著者の真摯な思いが伝わってきた。
週刊競馬ブックG1特集記事・おもひでの名勝負の執筆をしていただくべく大阪大学の事務局に電話を入れたのはそれから更に数ヶ月後、昨年の春後半だった。件の新刊書の著者は阪大大学院で哲学と現代思想を教えていらっしゃる先生だった。こちらが所属組織と氏名、電話の趣旨について説明すると電話に出た女性は「先生は一般の電話にはまずお出になりません」と困惑気味に答えた。世俗の煩わしさを遮断した生活をなさっている人物と想像した私は相手にメールアドレスを伝え“週刊競馬ブックの執筆依頼ですので、お返事だけいただければ結構です”と伝言を頼んだ。承諾メールはその日のうちに届き、ヒシミラクルの宝塚記念について書いていただいた。それから何度かメールでのやりとりが続き、そのなかに「週刊競馬ブックは仕事でフランスに行っていた数年間を除けば、必ず月曜日に購入しています」との文面があり、気持ちが楽になった。
オグリキャップが死亡した数日後、久しぶりに檜垣立哉教授からメールをいただいた。どこかで追悼記事を書きたいというのがその趣旨。週刊競馬ブックでは形ばかりの特集を組み終えた直後だったが、「オグリのことならなんでも書けます」との言葉が心に響いた。8月2日発行号でオグリキャップのお別れ会のレポート企画を組んでおり、それに合わせる形で原稿を書いてもらおうと決めた。ありきたりの追悼記事にはならないだろうと考えてのことだったが、予定より5日も早く届いた原稿は素晴らしい内容だった。メールを交わすようになって1年以上の歳月が流れているのに、会ったこともなければ声も聞いたことがない奇妙な人間関係が続いているが、必要以上に相手を気遣う必要がなく慣れ合いに陥らずに済むという意味では、こういった形の交流もいいかなと思っている。最後に檜垣さんの文章の一部を紹介してこのコラムを終わりにするが、競馬という共通語で話し合える限り、しばらくはこの奇妙な関係が続くのかもしれない。
「オグリキャップがいなくなったこの世界とは、オグリを鏡にして自分を確認できたあの世界が消えたということだ。でもそれも、もちろん時間のひとつの流れの帰結でしかない。私はその意味で、オグリの訃報をたんたんと聞き、たんたんと自分のなかで処理していた。自分の大切な何かを失うということは、それも人生にとってあまりにありふれたことなのだ。もうオグリはいない。しかし私のなかにはオグリによってだけ確認できる自分の過去があり、オグリによってだけ理解できる時間の流れがある。それだけなのだ」
競馬ブック編集局員 村上和巳