スポーツに 必要なもの
今年のワールドカップは存分に楽しめた。カメルーン戦に勝利してからも“日本の予選突破は難しい”と思ったが、引き分けでOKのアドバンテージがあったにせよデンマーク戦の戦いぶりは立派だった。しかし、だからといって岡田武史監督を名将扱いするのはどうか。指揮者としてそれまでのスタイルをかなぐり捨てて開き直ったのが結果オーライだっただけ。目指す理想の戦術と現実との狭間で揺れ動いたにしても、本番までの3年という歳月をただ浪費した現実を考えると過大評価はできない。それでも、日本人らしい勤勉さとフェアなプレースタイルでピッチを駆け回った選手たちは十分に存在感を示した。今回の予選突破だけで日本のサッカー界の今後の展望が開けたとは思えないが、周囲のサッカーファンに“日本はサッカー不毛の国”と品格に欠ける発言を繰り返した点は反省しておきたい。競馬だけでなく、サッカー、野球といろんなジャンルに首を突っ込んで結果を予想(賭博行為ではない)しているが、まるで当たらないのだから困ったものだ。
パラグアイ戦でPKを外して涙した駒野(週刊競馬ブック“競走馬の心技体”の執筆者・平賀敦さんに容姿が似ている)の姿が“イタリアの至宝”と呼ばれたロベルト・バッジォと重なった。彼自身もワールドカップ史上初となる決勝でのPK戦(対ブラジル、1994年)で駒野とほぼ同じ左上に打ち上げて外し、その瞬間イタリアの敗戦が決定した。悄然とピッチに立ち尽くす姿はいまでも歴史の一場面として繰り返し紹介されている。怪我との戦いを繰り返し、行く先々のチームで監督と衝突しながらも、ビッグゲームになるといつも奇跡的に復活。華麗なプレーでファンを狂喜させたバッジォは私の大好きなプレイヤーの一人。彼から伝わってくるのはプレーの質の高さだけでなく、観衆を惹きつけてやまない華やかさと品格。いつだってバツジォはファンに夢を与えてきた。だからこそ記憶に残る選手として語り継がれているのだ。ゴールを決めるとピッチを軽やかに駆けながら耳に手を当てて観衆に歓喜を求める独特のポーズに何度痺れたことか。“偉大なるポニーテール”と呼ばれた髪型も好きだった。“不気味なポニーテール”と言われ続ける誰かとはえらい違いである。
今年の決勝戦は日本と縁のあったオランダを応援しようかとも考えた。スナイデルという好きなタイプの選手もいたのだが、録画したゲームを見直してその気がなくなった。“攻撃型”と言われるオランダのプレーを繰り返し観察すると意図的とも思える“えげつない”ファウルが目立ち、ここ一番ではボールに向かわず相手選手を“削る”スライディングが多いように映った。結局はゲームが始まると例年通り“無敵艦隊・スペイン”を応援していた。このチームの華麗なるプレーからはサッカーの優雅さがふんだんに味わえるのだが、ワールドカップではイタリアに代表される“勝ちに行かないサッカー”に苦汁をなめ続けてきた。競走馬でいえば血統、馬格、風格と三拍子揃っていながらG1レースで連敗を続けたモンテプリンス(晩年になって天皇賞と宝塚記念を制覇。24戦7勝、1979年〜82年)みたいな存在だったかなと個人的には思っている。
終わってみれば品格の違いが明確に出た決勝戦だった。なりふり構わず勝ちに出たオランダの激しい攻撃は勝負のみにこだわれば“あり”かもしれないが、スポーツである以上は競技に対する誇りと威厳を持ちつつ、相手を尊重する気持ちが不可欠でもある。Jリーグが誕生した当初は“malicia”というポルトガル語が流行った。南米の選手特有の“ずる賢さ”(自分の戦略を実行するとの意味もある)を見習うべきだとの考え方だったが、その解釈にも幅があって当然。今年の決勝トーナメントでガーナと戦ったウルグアイのバレーボールと見間違えそうなディフェンスはいただけなかった。相手シュートを両手で阻止したのはプレーヤーならではの本能的な防御反応だったと一歩譲ったとしても、退場後に相手のPKミスに狂喜し、自国の勝利が決まった瞬間には肩車されてガッツポーズする姿には少々違和感があった。競技者としての誇りや相手に対する敬意があればとてもできなかった行為だと考える。今回のワールドカップを回顧すると、スペインは結果として世界一になっただけでなく、勝つべくして勝った王者としてふさわしいチームだったのではないだろうか。
この2週間ほどはサッカーに釘付けになった。時差の関係で深夜から早朝にかけての試合が多かったためにかなり疲れたが、世界最大のスポーツイベントを十分に堪能した。世界のトップレベル同士の戦いはやはり素晴らしかったし、同時にスポーツに必要なものについても改めて考えさせられた。秋のG1では強さと品格とを存分に見せつけるような素晴らしい馬が出現して競馬ファンに夢を与えて欲しい。
競馬ブック編集局員 村上和巳