我が心の Gray ghost
「ほら、トモの肉がすっかり落ちて体全体が寂しくなってる。怪物と呼ばれた頃の張りもなければ活気もない。可哀想にな。もうレースなんか使わず引退させてやったらいい。そう思わんか、村上」
栗東トレセンでG1レースの取材をしていると背後からベテラン騎手(現在は調教師)が声をかけてきた。私同様に彼も調教を終えて厩舎に引き返そうとする芦毛を見守っていた。中央入り当初は黒鹿毛と見間違えるほど漆黒に輝いていた馬体がすっかり灰色に変化したさまはまるで冬枯れした芝生のように映り、心なしか完歩までもが小さくなって見えた。数日前に会話を交わした担当の池江敏郎厩務員も「ここしばらくは右の飛節を悪くしたり、トウ骨を気にしたり。いろいろあったけど、いまは治まっとる。最後ぐらいは格好をつけてくれんかな……」と祈るように話すだけ。まるで元気がなかった。この段階で私はオグリキャップを無印にしようと決めた。中途半端な印をつけるのは馬に対してもファンに対しても失礼だと考えたのだ。
1歳上のタマモクロスを“史上最強の芦毛”として惚れ込んでいた私にとって笠松からやってきた芦毛は天敵だった。最強馬は1頭だけでいいのだ。最初に栗東トレセンの調教で凄い動きを見せたときも“ダンシングキャップ×シルバーシャークならあれぐらいは走るさ”と冷ややかだった。しかし、“Gray ghost”と呼ばれたネイティヴダンサーの血脈を考えると突然変異的に怪物が出現する可能性は十分にある。中央緒戦のペガサスSを大楽勝したときも“能力の高いマイラーさ”と敢えて高い評価を避けた。しかし、3戦目の京都4歳特別では2着馬を5馬身切って捨て、関東初見参のニュージーランドT4歳Sでは馬なりで他馬を7馬身ぶっち切った。クラシック登録のなかったオグリキャップはその後古馬に挑戦して高松宮杯で古豪ランドヒリュウをも一蹴。想像を絶するポテンシャルの高さに圧倒された。“これぞ怪物”と舌を巻くしかなかった。
1988年、秋の天皇賞。1番人気は中央入り後に重賞6連勝、前哨戦の毎日王冠では年長のダービー馬を難なく退けたオグリキャップ。2番人気は下級条件からG1の天皇賞(春)、宝塚記念まで7連勝中のタマモクロス。この芦毛2頭の最強馬決定戦はファンを熱狂させた。このとき私が競馬ブック紙面でつけた予想は◎タマモクロス○オグリキャップの1点だけ。先輩記者に「予想をなめとる」と注意されたが、「勝負になるのはこの2頭だけ」と反論。有り金すべてを自分の本命馬の単勝につぎ込んだ。結果はタマモクロスが勝利したが、喜びには浸れなかった。位置取りと流れが勝敗の明暗を分けたが、最後までひたむきに駆けるオグリキャップの姿に心を動かされた。古馬として円熟期を迎えつつも繊細で気難しさが目立つタマモと完成途上の若駒とは思えない重厚さと強靭な精神力を併せ持つオグリ。世代交代が間近に訪れる予感があった。
それからについては改めて取り上げる必要もないだろう。オグリキャップは初代国民的ヒーロー・ハイセイコーを凌ぐ活躍を続け、その注目度の高さは社会現象にまでなった。しかし、競走馬はあくまで血の通った生き物である。マイルCS(1989年)の奇跡的な勝利に鞍上が思わずもらい泣きし、連闘で挑んだジャパンCでは世界レコードで勝利したホーリックスに肉薄して見守る側を唸らせたが、それ以降のオグリキャップは間違いなく疲弊していた。その後は5戦して安田記念を1勝しただけ。1990年秋は天皇賞、ジャパンCで6、11着と見せ場もなく大敗。ひとつの時代は確実に終焉を迎えようとしていた。冒頭に書いたのは最終戦となった有馬記念の1週間前の話。日本中の競馬ファンにとってオグリキャップは過去の馬になりつつあった。
この年の有馬記念は極めて静かに流れた。ハナを切ったオサイチジョージの1000メートル通過タイムは63秒8。途中から3ハロン連続して13秒台のラップを刻むまるで条件戦のようなスローペースだ。“これでは前残りの決着になる”と誰もが思った刹那、中団に位置していた1頭がポジションを押し上げた。それまでの長手綱をジワッと絞り込んで重心を心持ち前に移動する騎手に喚起される形で馬自身が気力を振り絞る。この瞬間に勝ち馬が決まった。終わってみればタイムも内容も平凡な有馬記念だったが、体内に残された僅かひと滴の闘争本能でラストランを先頭で駆け抜けたオグリキャップ。私にとってその姿はまさに“Gray ghost”であり、王者としての矜持を守り通した走りには全身に鳥肌が立った。25年間の競馬記者生活において予想上で敢えて無印にした馬に勝たれながら後悔の念を抱かなかったのはこのレースが最初にして最後だった。
競馬ブック編集局員 村上和巳