ダービー当日の ある記憶
「おい、ダービーで勝負になる関西馬おらんのか?」と突然背後から声がかかる。聞こえぬふりをしてそのまま馬券売り場へと歩き続けると同じ声が追い討ちをかける。「ヤバいんや。どうしても馬券を当てんとアカン。ええ馬おらんか」と言われても答える気はさらさらない。声の主は普段ほとんど会話を交わすことのない某紙の競馬記者Aで私よりもひと回りほど年上。誰が見ても一般人とは思えぬ雰囲気の持ち主で見たままにその容姿を表現するならまるで博徒かその筋の人間だ。次の瞬間には横に並びかけて「お前、なに買うつもりなんや」と私の顔を覗き込んでくる。尖った頬、窪んだ目、そして内臓でも患っているのかと思える土色の顔はまったく生気が感じられない。「今年は関東馬が強そう。私は好きな馬を買うだけ」そう突き放すように答えて足早に窓口へ急ぐ。その場に残されたAは別の記者を掴まえて再び同じ話を繰り返す。競馬が社会に認知されていない時代とはいえ、当時の競馬業界には各社にひとり、ふたりはこんな人間がいた。仕事もろくにせずただ馬券だけを聞き回っている彼らは私にとって口を利くのも嫌な人種ではあった。
この年のダービーは圧倒的な東高西低。有力馬は関東馬ばかりで関西馬はほとんど人気していなかった。にもかかわらずAが関西馬を狙ったのは理由があった。後で知ったことだが、彼は知人から預かった1000万円の大半をこの日の競馬で使い込んでいたのだ。残金は100万弱。人気馬同士の組み合わせを買っても取り返せない。そこでダービー勝負となったようだが、それで取り戻せるほど競馬が甘いわけもない。元金が戻るよう計算して2点張りで勝負した関西馬はゴール前で失速。最終的に彼の懐には10万円しか残らなかった。最終レースの締め切りが迫る頃になると放心状態のAが誰に言うともなく「よ〜し、万馬券を当てればいいんや、万馬券を」と独り言を漏らす。それを耳にした私が“懲りないヤツめ。こんな競馬ゴロみたいな人種がいる限り、競馬が社会に認知される時代はやってこない”と呟いているうちに場内にファンファーレが鳴り響く。
それはもう奇跡としか思えない光景だった。平場の12レースは人気薄の2頭が並んで1、2着に入線。枠番連勝は万馬券の波乱となった。ゴール前で「そのままや!そのまま〜」と絶叫する声は紛れもなくAのもの。半狂乱の彼の周囲に数人が集まり騒ぎは更に広がる。なんと彼は1点張りでこの万馬券を的中させたのである。仕事の区切りがついた段階で知人に頼まれたダービーの的中馬券を払い戻すために窓口に向かった私の視線の先に土色の上気した顔があった。大きな茶封筒を幾つか受け取り、それを無造作に紙袋に放り込んでいる。「どうや、キャッシュで1200万。勝負強い人間ってのは俺みたいなヤツを言うんや」と得意げに話しかけてくるが、返事はせず僅かな払い戻し金を黙って財布にしまい込んでさっさとその場を離れた。
当時の厩舎回りといえば取材内容を本社の編集部に電話で伝える“口述筆記”の習慣が残り、原稿を自分で書くのはひと握りの若手だけ。想定と馬の状態の良し悪しを聞き回る以外は他に仕事らしい仕事がないため、記者の評価基準は関係者に顔が利くかどうかと馬券でどれだけ稼げるかぐらいしかなかった。私もひとレースで帯のついた束をふたつ手に入れた経験があるが、知人と資金を出し合って4レース転がしてやっとその金額に到達。それも検討に検討を重ね、3週間を費やしてのものだった。10万円1点勝負で万馬券を当てたAは競馬サークルでひとしきり話題となった。私の知る限り、知人や周囲の人間を含めても、ひとレースの払い戻し金1200万は文句なしの最高金額だった。それからしばらくの間、私は予想も馬券もまるで当たらなくなった。Aのことは完全に無視したつもりだったが、大金を手にした同業者にアオられて自分のリズムを見失っていた。軌道修正に数ヶ月を要したのだから情けないが、苦しい言い訳をするなら20代の新米記者。若かった。
それから半年後、Aは競馬業界から忽然と姿を消した。ある組織の資金を馬券で使い込んだために逃げるしかなかったとの噂が流れた。真偽のほどは定かではないが、いかにも彼らしい最後だなとは思った。競馬マスコミに近代化の波が押し寄せるのはこの事件があった直後から。それ以降は怪しげな人種が徐々に姿を消し、純粋に競馬に向き合おうとする人間たちが集まって現在に至っている。これは業界の名誉のためにも付け加えておくべきだろう。そしていまの私はたまに競馬場に行くと五百円硬貨や千円札を握り締めて馬券を買い、当たった外れたと言って一喜一憂。それで十分楽しめている。私にとって好ましい記憶ではないが、ダービー週がやってくるといつもこの年の最終レースのことを思い出す。いまから30年ほど前の話である。
競馬ブック編集局員 村上和巳