さらば個性派女優 ウオッカ
3月7日、早朝に社内スタッフから“ウオッカ引退”を知らせるメールが届いた。翌8日(月)発売の週刊競馬ブックでは4日にドバイで行われたマクトゥームチャレンジ・ラウンド3の結果を含めたウオッカ絡みのかなりの記事を掲載予定。直ちに原稿修正が必要になるが、まず事実関係の確認を最優先すべきなのは当然。電話、メールで数カ所と連絡を取っている間に“角居調教師が弥生賞終了後に記者会見で引退を発表する予定”との報告が入った。すぐ各原稿の編集担当者に連絡を入れようかと思ったが、日曜日の朝でまだ時間も早すぎると考えて自重。ネットの競馬関連記事に目を通したが、ほとんどのサイトで“引退記事”はまだ掲載されていない。そこからしばらく競馬ブックwebでウオッカの全成績を見ていると様々なシーンが甦る。
長く馬と関わり合って生きているといろんな事態に遭遇する。消長の激しいサラブレッドの世界ではつい昨日まで絶好調だった馬が翌日に脚部不安で放牧に出てしまうこともそう珍しくはない。A級馬の突然の引退発表に驚かされたこともこれまでに何度かあった。そんな経験を積み重ねてきたため、マクトゥームチャレンジ・ラウンド3のレースぶりがあまりに彼女らしくなかったことから“体調不良かはたまた再度鼻出血でも発症したか”などいろいろ想像を巡らせた。しかし、現地から届く情報は“ワールドCで巻き返しを期す”といった論調のものばかり。繊細なタイプは環境に慣れるまでに時間がかかるものだからと気持ちを切り替えて、本番でウオッカらしいラストランを見せてくれればそれでいいと考えた矢先の出来事だった。
ウオッカの競走生活は順風満帆ではなかった。というよりも、むしろ敗戦という屈辱をバネにして常に至上の高みをめざし続けた陣営の姿勢が彼女を最強牝馬に育て上げたのではないか。確勝級と思われた桜花賞でダイワスカーレットを捉え切れなかったのが最初の躓き(勿論相手も素晴らしく強かったが)で、本来ならオークスで雪辱を期すべきところを“どうせならドキドキ感を味わえるレースに”(角居調教師)との決断でダービーに挑戦。直線だけで牡馬を斬って捨てた末脚の記憶はいまも鮮烈。考えてみるとそれ以降のウオッカは牝馬というくくりでは語れない存在になっていた。その後の7連敗、そして安田記念(2008年)での復活劇を思い出すと、2歳暮れに阪神JFを制した天才少女がその後これほどまで浮き沈みの激しい競走生活を送ると誰が想像したことか。時には不運なヒロイン役を演じ時には華麗なる女王として君臨したウオッカ。その本質は勝つことを義務付けられたシンボリルドルフやディープインパクトといったスーパーヒーローとはまったく異質で、常に“強さと危うさ”“光と影”とが同居していた。そんな個性派だからこそファンの心を掴んだのだろう。
鞍上も四位洋文から武豊へ、そしてクリストフ・ルメールへと替わった。とりわけ日本の至宝・武豊から外国人騎手へのスイッチは苦渋の決断だったと推察するが、陣営はあくまで妥協せず理想を追い求めた。そんな経緯を見守ってきただけに、ジャパンCのゴール前では“我慢しろ、我慢。負けちゃいかん!”と心の中で叫んだ。ゴール前で猛追するオウケンブルースリの迫力はさすがだったが、それまでに背負ってきたものの重さを考えるなら、ここでウオッカは負けてはいけないとの気持ちになっていた。2008年秋の天皇賞に続く僅か2センチ差の勝利だったが、振り返ってみるとこのジャパンCはウオッカの国内最終戦であり、この一戦でウオッカ物語は完結していた。言ってみれば、今回のドバイ遠征は繁殖牝馬としてアイルランドに渡るにあたってのひとつのセレモニーみたいなもの。個人的にそう解釈していたぶんだけ引退で受ける衝撃は少なかった。
結局、この日は通常通りに出社。原稿担当編集者の素早い対応もあってそう取り乱すこともなく業務を消化できた。週刊誌の最終校正が終了してひと息ついた段階でふと考えた。ウオッカのベストレースは何だったかと。記録として残るのは牝馬として64年ぶりに制したダービーだろうが、同世代の牡馬レベルを考えると脇役がいかにも物足りない。記憶として残るのは、やはりダイワスカーレットと死闘を繰り広げた2008年秋の天皇賞だろう。誇りを懸けて向き合える相手がいて、戦い続けることで双方のポテンシャルが引き上げられるライバル関係は見守る側の我々も胸が躍るものだった。退社する少し前に小社HPのトピックス欄に目を通すと、『ウオッカ鼻出血で引退』『ダイワスカーレットに初仔誕生』のふたつの見出しが綺麗に並んでいた。
競馬ブック編集局員 村上和巳