三十数年のとき を超えて
N「いよっ、じり脚ミリオンパラ!」 私「最後方にゼンマツ!ゼンマツはここでいい」
長く連絡が取れなかった知人N氏の消息が判った。ひょんなことから彼とコンタクトが取れた共通の知人Uが私に連絡先を教えてくれたことで事態は進展。こちらから電話を入れた。相手がUを通して知った私の携帯電話の番号を登録してくれていたとはいえ、三十数年ぶりの会話だというのに“やあやあ”もなければ“久しぶり”の言葉もない。世間的には感動的な場面であるはずの会話の冒頭が古い競走馬の名前だったあたりに当時の我々の関係と生き様とが窺える。ちなみに、ミリオンパラ(※1)とゼンマツ(※2)は同じ1968年生まれの競走馬で、どちらも長くオープンに在籍したが、所謂G1級のレースとは無縁で忘れた頃に追い込んで穴をあけるタイプだった。咄嗟に口にした馬名が著名なスターホースではなくマイナーで個性派の脇役だったところに彼らしいユーモアのセンスと内在する尖った感性とが伝わってくる。すぐに歩調を合わせた私も私だが。
翌日の夕方、業務を終えた私はJR草津駅西口にあるホテルのラウンジにいた。仕事で近くまでやってきた彼と早速会うことになったのだ。我々が出会ったのは彼がまだ理工系の学生で私はロック喫茶の店主兼使用人だった時代。相手がひとつ年上なので、敬語こそ使わないまでも丁寧語を織り交ぜて話すのは当時のままだが、彼がロックバンドのベーシストとして活動していた頃の話、店で知り合った共通の知人の消息、その後の人生などを語り合っているとブランクなどぶっ飛んだ。額と頭部の境界線がなくなって口髭が白くなっているところに年齢を隠せないが、優しい目の配りや構えず飾らず自然体の言動は昔と変わらない。「大学をやめて新聞広告で仕事を探して、それからはまあいろいろあったんよ」とその後を振り返る彼。畑違いの分野に飛び込んで苦労したろうに、いまや大阪市内で税理士事務所を経営して悠々自適。すっかり渋味が出ている。
N「相変わらず馬券でやられてるんか?(笑)」 私「うん、まあ仕事だからほどほどにしてるけど」
ある時期から昔の知人のことが妙に気になりはじめてパソコンで検索するようになったというのは私も一緒。人生の終着駅が近づいているのを実感するようになると、漠とした不安を抱えながらも奔放に生きてきた若い頃の記憶が懐かしくなるのかもしれない。何年か前にネット上で私のこのコラムを見つけたというのに連絡してくれなかった彼に対する不満はあったが、それについて特に抗議はしなかった。自分が会いたいからといって相手も同じ気持ちだとは限らないし、三十数年の月日を一瞬で乗り越えられる人間関係を構築していたと言えるほどの自信家でもない。それだけに最初に電話するときは逡巡したが、そんな私の心理を読み切っていたかのように“ミリオンパラ”の馬名で気持ちをほぐしてくれたあたりがいかにも彼らしい。
早い機会に“同窓会”を実現させようと約束して別れた後、帰宅した私は書棚の奥に仕舞ってあった古ぼけて汚れた大学ノートを引っ張り出した。当時、我々と他に2人を加えた4人で毎週競馬の予想をして当たった外れたと騒いでいた。前週の予想収支1位になった人間がその週のメインレースの見出しを書く権利を得る決まりになっていて、パラパラとページをめくるとキタノカチドキが単枠指定となった1974年のダービーの記事が出てきた。その見出しは“二冠と無敗と栄光と……”となかなか本格的。考えてみると私の週末の生活ぶりは当時もいまもほとんど変わらないが、競馬と出会っていろんな仲間ができたのは間違いない。
※1 ミリオンパラ(バウンドレス×コンゴーセキ)……61戦8勝。重賞勝ちはなかったが、1973年秋の天皇賞で人気薄ながらもタニノチカラの2着に入線して気を吐いた。主戦は戌亥信昭騎手。 ※2 ゼンマツ(テッソ×フジリユウ)……26戦5勝。1972年のアルゼンチンJCCに優勝。最後方から追い込むレースで人気を集めた。“ゼンマツはここでいい”は当時の実況アナの口癖。主戦は吉永正人騎手。
競馬ブック編集局員 村上和巳