君らしい騎手生活を
初めて言葉を交わしたときのことは何故か風景まで覚えている。 「いい動きをする新馬だね」「ええ、走りますよ、この馬」 のちにオープンまで出世する鹿毛の牝馬がデビューする直前。 当時17歳の君は赤帽をかぶって厩舎の前庭を掃除していた。 落ち着いた受け答えをする若者だと思ったのが第一印象。 それから親子みたいな我々の交流がはじまった。
騎手としてデビューした年は苦労したんだったな。 なかなか初勝利を挙げられず周囲の人間たちはやきもき。 いまから考えれば本人がいちばんつらかったろうに、 泣き言ひとついわず黙々と馬に乗っていたっけ。
初めて重賞を勝ったときの記憶はいまでも鮮明。 でも、いいことばかりがあったわけじゃない。 骨折して身動きできずベッドで横たわっていたこともあった。 見舞いに行ったこちらの方が励まされたんだったよな。
G1を先頭でゴールしたときはまさに感無量。 記者として競馬場で数え切れないほどレースを見てきたが、 特定の人馬にあれほど感情移入したのはあのときだけ。 知り合ってからはいろんなことがあった。 記者時代の記憶を辿ると君と出会った頃がいちばん楽しかった。 たくさんの想い出を共有できたことに感謝している。
いまは騎手にとって厳しい時代。 跨っているだけで勝てる馬なんてまず回ってこない。 苛立ったり焦ったりすることも少なくないだろう。 騎手は勝つことでしか自分を表現できないと思いがちだが、 泥まみれになりながらも諦めずに馬を追い続ける姿を見守り、 その生き様に自分を重ねて声援を送るファンだっている。 いままで通り君らしく生きればそれでいいと思うぞ。
「現役でいる間に急いで結婚なんかはしたくないですね」 これは以前に何度か酒の席で聞かされた台詞。 肩書きで自分を判断されたくないとの信念だけでなく、 危険な職業に就いてるからこその言葉だったとも理解している。 そんな君から新たな人生を歩みはじめたと連絡をもらった。 信念を曲げてでも一緒に生きようと思える相手と巡り合えたんだな。 そうなったんならもうオヤジみたいな人間はふたりもいらない(笑)。 これからは一ファンとして静かに応援するつもり。 怪我と無縁で騎手生活をまっとうできるよう心から祈っている。
競馬ブック編集局員 村上和巳