血染めの 歪んだハミ環
「そこにあるのが今朝の調教で使ったハミや。見てみ、血がこびりついて変形しとる。そうそう歪むようなモンやないのに、新品がこれや。こんな凄い馬担当するのは初めてやな」
高橋範顕厩務員の言葉につられて馬房の前を見ると環のところどころが赤黒く染まったハミが壁から吊るされていた。それだけではない。本来は円形のハミ環が歪んで楕円になってもいた。幼駒用の小さ目のもの、使用を嫌がる馬用に甘味を感じる素材を使ったものと、ハミには形状も素材も様々な種類があり、競走馬用には強度の高い合金素材を使うことが多い。にもかかわらず、行きたがるのを我慢させて折り合いを教え込もうとする騎手と気分に任せて突っ走ろうとする馬との綱引きで、口を切った馬の血が滲み形まで歪んでしまったハミ環。それは馬房のなかの若駒が桁外れのスピードとパワーの持ち主であることを示していた。
1993年秋。栗東トレセンに米国産(Ogygian×Shamaritan)の牡馬がやってきた。最盛期には500キロにまで成長するのだが、当時の馬体重は470キロほど。それでも分厚い筋肉に覆われた胸の深い鹿毛の馬体は入厩当初から目立った。断然人気の新馬戦(中京1200メートル)をレコード勝ちしたそのエイシンワシントンは次なるレースとしてG1の朝日杯3歳Sに出走。結果は6着だったが、私はキャリアの浅さが敗因と判断。次に同じメンバーと戦えばこの馬が勝つと考えた。ポテンシャルの高さに惚れ込んでいたのだ。ちなみにこの年の朝日杯の優勝馬はナリタブライアン。翌年、圧倒的な強さを誇示して三冠馬となる優駿だが、私は順調なステップを刻んで成長さえすればマイルまでの距離ならこの馬の方が強くなると信じていた。
生涯25戦8勝。マイルでも1勝しているエイシンワシントンだが、その強さを見せつけたのは1200メートル戦だった。この距離に限れば13戦7勝2着1回、レコード勝ちも3度を数えた。発馬を決めてスピードに乗ると他馬は影さえ踏めなかった。ベストパフォーマンスは最終戦となった1996年のスプリンターズS。スプリント女王として君臨するフラワーパークとの死闘はいまでも語り継がれる名勝負のひとつ。長い写真判定が続く間、私は高橋さんとその担当馬にG1初制覇の瞬間が訪れることを祈った。しかし、3度の骨折を乗り越えて走り続ける馬とそれを支えてきた厩務員に対して勝利の女神はあくまで非情だった。
翌1997年、2月14日。仕事の合間にトレセンへ駆けつけたが、馬房の前で悄然と立ち尽くす高橋さんにかける言葉がなかった。前日の調教で複雑骨折したエイシンワシントンは右前脚を分厚いギプスで固められており、突然の訪問客を一瞥したが、その表情にはいつもの精悍さが感じられず痛々しいほど憔悴していた。「能失(競走能力喪失)やった。痛みに耐えて自分で寝起きしてくれればいいが、それができんかったら蹄葉炎になる。そうなったらもう長くは生きられん」と馬房に視線を向けたまま独り言のように呟く彼。真新しい白いギプスを凝視しながら私はただ意味のない相槌を打つことしかできなかった。
数カ月後、奇跡的に危機を乗り越えたエイシンワシントンは種牡馬になるべく北海道へと旅立った。それ以降、高橋さんと私は卓越したスピードと4度もの骨折を克服した強靭な精神力を受け継ぐ優秀な産駒の出現を待ち続けることになった。数年後に私が内勤に変わったことで彼との交流は途切れがちになったが、たまに出向いたトレセンで偶然顔を合わせると昔話に花が咲いた。エイシンワシントンはこれまでにエイシンアモーレ(13戦2勝)、エイシンヘーベ(31戦6勝)、スーパーワシントン(現1600万)といった馬を送り出してはいるものの、父の面影が重なるような強烈な個性を感じさせる産駒を出さないまま、2009年に3頭に種付けしたのを最後にして種牡馬を引退。現在は功労馬として鹿児島県姶良郡で余生を送っている。
昨年の暮れも押し迫った頃、現場の人間から高橋さんが亡くなったことを知らされた。普段通り厩舎に出勤してロッカーで着替えようとした瞬間に倒れたという。葬儀が済んだ後で訃報を聞いたために最後の挨拶をすることも叶わなかった。私と同世代だった彼には厩務員として手腕を発揮する時間がまだ残されていたはずで早すぎる死が哀しい。現役時代のすべての月日を彼と過ごしたエイシンワシントンは度重なる不運な骨折さえなければ史上最速、最強のスプリンターになれたと確信している私だが、時が流れ年齢を重ねる毎にその記憶が少しずつ薄れている。それだけに、血にまみれて歪んだハミ環も含めた幻のG1馬の話をどこかに残したいと考えていたが、それが高橋さんへのレクイエムになってしまったのが残念でならない。
競馬ブック編集局員 村上和巳