7月5日に札幌競馬場で行われた函館スプリントSは早めに先頭に立ったグランプリエンゼルがそのまま押し切って優勝した。この結果はほとんどのファンの方がご存じと思うが、私の記憶に強く残っているのはレース内容ではなく記念撮影の一場面。つまり勝利騎手の表情に驚かされたのである。手元に週刊競馬ブック7月6日発売号があればカラーグラビアをご覧いただきたいが、馬上でポーズをとる騎手のくぼんだ目や尖った頬はこの一戦に懸けた減量の過酷さを物語っていた。このレースでのグランプリエンゼルの斤量は51キロ。騎乗する騎手は47〜48キロぐらいまで体重を落とす必要があったはず。40歳を越えての大幅な減量に極限の厳しさが伴ったろうことは想像に難くない。別人のような熊沢騎手の表情から様々なことを思い出した。
取材者 「真夏のこの猛暑なのにそんな格好して、暑くないんですか?」 熊沢騎手 「うん、いつも長袖を着て調教してるから、もう体が慣れてる」
私が現場取材をしていた頃によく耳にした会話だ。事情を知らない記者は真夏でも長袖の調教服を着て馬に跨る姿に戸惑い、上記のような質問を浴びせる。騎手としてそう上背のある方ではない同騎手だが、体はボディビルダーのような筋肉に覆われている。その逞しい体で馬を御す姿は迫力満点で競馬サークルでは若い頃から所謂“追える騎手”として認められていたが、そんな彼にも問題はあった。油断すればすぐ太る体質だったのである。若手騎手への騎乗依頼はハンデ戦の軽量馬や平場で減量を生かす馬が大半。つまり、彼らがチャンスを掴むためには常に自分の体重をギリギリまで落としておく必要があった。減量が極限の状態になると軽く水を口に含むだけで100グラム単位で体重が増えるともいわれ、食事の際に体重が増えやすいビールや炭水化物などを制限するのは当然。彼が真夏でも長袖を着るのは体重を一定にコントロールするための苦肉の策だった。
今年のダービーを制した横山典弘騎手、そして先日の小倉記念で重賞初勝利を達成した松永幹夫調教師はどちらも現在の競馬学校の第二期卒業生。彼らと同期デビューで礼儀正しく誠実で丁寧語、敬語の使い方をきちんと心得ていた熊沢騎手は日常生活だけでなく馬上にあっても優等生。初年度からそれなりの成績を残していたが、いまから考えれば環境には恵まれなかったと言えるのかもしれない。所属厩舎を管理する調教師は弟子に対して極めて厳格だったが、私の個人的な印象で語らせてもらえば、その厳格さは自己の利益を優先するためだったようにも思える。若手が成長するには自身の努力が第一だが、周囲の人間たちのバックアップも必要不可欠。弟子が他の厩舎から有力馬を依頼されても、それを断らせてふた桁着順が続く自厩舎の馬への騎乗を強要することが多かったように、調教師にもいろんな人物がいる。そんな環境にあっても不平不満は一切口にせず、黙々と与えられた仕事をこなし続ける姿からはいつも切ないほどのひたむきさが伝わってきた。
ある時期に「フリーになろうかと考えていますが、どう思いますか」と相談された。それまでにも何度か同様の相談をされたが、大概は“束縛されず自由になりたい”“自分の腕だけで勝負したい”という若者特有の無鉄砲な発想が多かった。減量の恩恵があるうちは他厩舎から依頼があるものの、なくなると余程腕がない限り声がかからない。フリーになれば給料、つまり収入がゼロになるのだから騎乗依頼がなくなると窮状に陥る。そんな例を数え切れないほど知っていた私はほとんどの場合に「時期尚早、もう少し辛抱しろ」とアドバイスしてきた。しかし、熊沢騎手には「フリーになるべき」と即答した。騎手としても人間としても十分やっていけると思っていたからである。そんな相談の際でも他人の悪口や批判などは一切言わず、あくまで自分自身の立場を説明するだけ。話を聞いてみると所属厩舎の後輩騎手が一人前になる時期を待っていたという。立つ鳥跡を濁さずというのか、自分が去ったあとの配慮も忘れてはいなかった。そんなヤツなのである。
これまでにコスモドリーム(1988年、オークス)、ダイユウサク(1991年、有馬記念)でビッグレースを制している熊沢騎手が2回小倉7日目の4Rをベネラで勝って通算900勝を達成した。ここまでを振り返ると順風満帆な騎手生活ではなかったかもしれないが、決してレースを投げることなく最後まで全力を振り絞って騎乗馬を追い続ける姿勢にはいつも感心させられる。肋骨を折ってギプスをした状態で騎乗して叩き合いを制した話は有名であり、平地にも障害にも乗り続ける姿に憧れる若手騎手も少なくない。まずは区切りの1000勝を、そして前人未到の平地&障害G1制覇をめざして頑張って欲しい。私が現場を離れて時間が経ったせいもあるが、最近はレースを見ていて生き様が伝わってくるような存在感のある騎手が少なくなってきたように思える。それだけに彼には息の長い騎手生活を送って欲しい。くれぐれも怪我には気をつけて、クマちゃん。
競馬ブック編集局員 村上和巳