「入厩して数週間が経つと、普段跨っている調教助手が“これは凄い馬になりますよ”と言ってきた。しかし、その段階では彼の言葉を鵜呑みにはしなかった。これといって目立つ時計が出ていたわけでもなければ、動きが飛び抜けてよかったわけでもない。ウチの厩舎では馴染みで筋の通った血統ではあったが、まだ随所に若さが目についてもいたしね。いまから考えると調教で人目を引くような動きをするようなタイプじゃなかったんだろう。そんな地味な印象だったが、実戦へ行くとどんな状況にもきちんと対応して結果を出してくれた。それと、普段から落ち着きがあって物事に動じることのない精神力の強さと聡明さが感じられた。いつも自分でコンディションを整えてくれるので仕上げにもそう手間取らなかった記憶がある。2歳の暮れにラジオたんぱ杯を勝ってくれたときの、新馬を1戦しただけの馬とは思えない勝ちっぷりは想像を遥かに超えていた。“これは凄い馬になる”との言葉が現実味を帯びてきた瞬間であり、その段階で私自身も三冠を狙えるだけの資質がある馬と実感した。それからというものは慎重の上にも慎重を期して調整を続けてきたつもりだったんだが……」
この栗毛馬が栗東へ入厩したのは2000年の秋。祖母が1979年のオークス馬アグネスレディーで母が1990年の桜花賞馬アグネスフローラ、そして1歳上のアグネスフライトがこの年のダービーを制していたこともあって、この馬がトレセンに入厩したというだけで大きな話題を集めたのも当然だった。調べてみると登録馬名表にはアグネスタキオンと記されており、ご存じの方も多いと思うが、“タキオン”とは米国の物理学者が名づけた超光速で動くと仮定されている粒子で、どんなに減速しても常に超光速であって光速以下にはなることはないという。最初に目にしたときは随分派手な名前をつけたものだと思ったが、新馬、ラジオたんぱ杯、弥生賞、皐月賞と堂々の4連勝を飾ったあたりでは“タキオン”のネーミングに違和感がなくなっていた。というか、競走馬の名前というものは個々の成績に応じて変化していくものであり、皐月賞の頃には隙のない完璧な強さを所持する馬とのイメージが定着していた。上述の通り長浜博之調教師が2歳暮れの段階で「三冠馬を狙うだけの資質がある馬」と実感したのも成績から当然と思えたし、だからこそ「慎重の上にも慎重を期して」接してきたのだろう。しかし、長い歴史が物語るように若い競走馬を思い通りの姿に育て上げるのは容易なことではない。
ダービーを目前にして無念にも屈腱炎で引退したアグネスタキオン。その悲報を聞いたときに思ったことがひとつ。祖母、母、そして兄がGTを勝っているこのアグネス一族だが、それぞれが手中に収めたタイトルは僅かひとつだけだったという記憶である。ダービー馬の兄よりもあらゆる面でポテンシャルが高いと評価されていたこの馬こそ壁を破ってタイトルを獲りまくると信じていた私にとって、耳にした引退のふた文字は衝撃的だった。この一族に内在する激しさがひとつの原因となっているのか、それとも目標の一戦を制した段階で心身ともに燃焼し尽くしてしまうのか、いずれにしても血統ゆえと片付けるには悲しすぎる結末ではなかったか。最終的には4戦4勝だったが、2着馬との着差合計は実に12馬身半にも及ぶ。馬に必要以上の負担をかけないことをテーマにして派手な勝ち方を極力避けていた河内洋騎手が跨ってこれだけのパフォーマンスを示したのだから、アグネスタキオンという馬の潜在資質はレース結果だけでは計り知れない奥深さがあったと思われる。
ロジック、ダイワスカーレット、キャプテントゥーレ、ディープスカイ、リトルアマポーラといったタイトルホースを世に送り出し、2008年には父サンデーサイレンスを凌ぐ成績を残してJRAチャンピオンサイアーになったばかりだったことを考えると、11歳での死はあまりに早い。上記の産駒をイメージすれば気付くと思うが、いかにもそのDNAを受け継いでいると感じさせる父親似の馬がいないのも残念である。「その背に跨っていた騎手として、タキオン産駒で大きなレースを勝つことを目標にしてきた。まだ願いは叶っていないが、これからデビューする馬たちから父を凌ぐような存在が出てきて欲しい」との河内調教師のコメントに同様のニュアンスを感じるのは穿ちすぎだろうか。来年誕生する最後の世代のデビューは2012年。その頃の私がどんな人生を送っているかは判らないが、それまでに聡明にして隙のない強さを所持する父親似の産駒に出会いたい。
競馬ブック編集局員 村上和巳