5月16日、土曜日。午後からトレセンを徘徊していると不思議な光景を目撃した。厩務員が手綱を引いて前を進み、どちらかというとそう大きくはない目立たない馬がその背に従ってゆっくりと歩を進めている。ここまではよく見かける風景なのだが、ポツリ、ポツリと雨が落ちてきた途端に引かれていた馬が突然顔をブルブルと左右に振り出したのだ。まるで子どもが嫌々をするような仕草があまりに可愛いかったので立ち止まってその人馬を眺めていると、次の瞬間に馬は自分の顔を厩務員の背中に上下にこすりつけているではないか。滅多に見られない場面に遭遇したため、好奇心と現場時代の取材癖とがついつい顔を覗かせる。
「慶次(けいじ)、さっきからやたらと変わった動きをしてるけど、一体なにやってんのかな?」 「ああ、久しぶりっすね、見てたんですか。コイツね、雨が嫌いなんすよ。とくに自分の顔に雨が当たるのが嫌みたい。それで、雨粒で濡れた顔を俺の背中にこすりつけてるんですよ」 「ふ〜ん、そうだったのか。でも、大丈夫か、来週の日曜日は雨らしいぞ?」 「ホンマですか?じゃあ、少し慣らしといた方がいいかな、雨に」 「いやいや、嘘、雨は嘘。慶次が相変わらず稼ぎまくってるから苛めたくなって」 「いえいえ、思い通りにならんのが競馬ってもん。勝てるときに勝っとかないと」 「桜花賞のときにも感じたんだが、レース後の記念撮影でもケロッとして落ち着いてる。精神面が強いだけでなく、心肺機能も優れてるんだろうな。普段から手がかからない馬なんだろ?」 「皆さん、そう言ってくれるんだけど、俺に対してはふざけたりヤンチャだったりするんですよ。でも、レース当日になると別な馬みたいにいい娘になる。それがこの馬の長所なんやろね」
山口慶次厩務員のところには半年に1度ぐらいの割合で顔を出す。牝馬2冠を達成したベガを筆頭にオープン馬を幾頭も育て上げてきたその手腕には定評があり、彼が担当する馬は例外なく走ると言われている。普段からマスコミに対して協力的で発言内容に表裏がない。だからこそ彼の周りにはたくさんの人間が集まる。2000年の朝日杯3歳Sで1番人気に支持されながらレース中の故障(2着入線)で帰らぬ馬となったタガノテイオーや、重賞を4勝しながらG1級レースに手が届かないまま腸捻転でこの世を去ったアドマイヤキッスも彼が担当した馬。「思い通りにならないのが競馬」という短い言葉の奥にはこれまでの厩務員人生の喜怒哀楽が込められているのだろう。「稼ぎまくってるから」などと無神経な言葉を投げかけた自分を恥じた。
オークス当日は朝から小雨が降ったり止んだり。精神力の強い馬なら少々の雨でもレースになれば集中して走るだろうと思いつつも、「来週の日曜は雨だぞ」なんて悪い冗談を言ったと悔やんだ。しかし、午後になって雨が上がり、まずはひと安心。桜花賞の上位馬がそのまま人気を集めているオッズを確認した編集部のデータ班が「桜花賞の1、2、3着馬がオークスでもそのままの着順で上位を占めたのはベガが勝った1993年の1度だけです」と分析結果を報告してくる。思わず「大丈夫、歴史は繰り返す。ブエナビスタの担当者はベガもやってた腕きき。レッドディザイアもパドックの気配は最高。3連単は人気でも桜花賞の上位3頭の1点勝負」と答えながら、直前になって配当の安さに心変わりした私。ああ、馬券の敗戦も繰り返されるのかと嘆いたが、迫力に満ちた素晴らしいオークスを見終えると個人の馬券成績なんてどうでもよくなっていた。
ゴール前で次元の違う伸びを見せながらも「内か外か迷った分だけ仕掛けが遅れた」と安藤勝己騎手が話せば、行きたがるのをなだめて綺麗な騎乗をしたにもかかわらず、「もう少し(抜け出しを)我慢すればよかった」と漏らした四位洋文騎手。2頭が並んでゴールインしたため結果は写真判定となった。ウィニングランを控えてゆっくりスタンド前に戻ってきた1番人気の人馬を芝コースに入って出迎える慶次の姿が画面に写し出される。「届いたかな?」「カメラマンはみんな届いたって言ってた」と会話を交わした直後に結果が発表され、騎手と厩務員はガッチリと握手。優勝馬は死闘を演じた直後とは思えぬ涼しげな表情でふたりを眺めていた。
桜花賞、オークスを制したブエナビスタはこの後、放牧に出して休養に入る予定だという。秋には渡仏して凱旋門賞に挑戦するのもいいし、国内でウオッカと最強牝馬決定戦を演じるのもいい。いずれにしても、まずは無事で競走生活をまっとうして欲しいと願う。そして、秋にはもう一度厩舎に出向いて人馬の姿を見てみたい。その頃には例の可愛い仕草を見せることもなく、逞しい馬に成長しているのだろう。
競馬ブック編集局員 村上和巳