5月9日、土曜日。午後から時間が空いたため、京都競馬場に出掛けた。競馬場行きの車の第二便に乗って現地へ到着したのが12時30分。まずはいつも通り検量室の横にある関係者専用の中華料理店に飛び込んで腹ごしらえ。ラーメンと餃子を胃袋に詰め込んでいると、池江泰郎厩舎所属の村本善之調教助手がこちらを見て右手を上げてくる。顔を合わせるのは5、6年ぶりだが、厳しい減量と戦っていた騎手時代の晩年よりも表情に活気が感じられる。じっくりと話す機会がなかったのは残念だが、立場は違っても競馬サークルで同時代を過ごしてきたいわば仲間同士。そんな相手の笑顔を目撃するとこちらまで気持ちが浮かれてくる。
食事が済むと6階のゴンドラに上がり日刊紙記者席へ直行。週刊誌・一筆啓上の執筆者である井上泰司記者を探したが、土曜日は大阪本社に詰めているとのこと。立ち去ろうとすると顔馴染みの記者が「久しぶりですね」と声をかけてくる。彼が新米競馬記者としてトレセンにやってきたのはおそらく15年ほど前だったはずだが、当時とは別人のように風貌や体型に貫禄が出ている。「いい原稿書いてるか?」と尋ねると「不況もあってもうひとつ競馬が盛り上がりませんワ」との返答。「そんな時代こそマスコミの力が必要。いい記事を書いて予想も当てて競馬を活気づけてや」と激励して次なる場所へ。我ながらまあ調子のいいオッサンである。
JRA関係者、放送関係者との話し合いを済ませるといよいよ自由時間に突入。そこからは例によって一般席に降りて人混みのなかでの競馬観戦。まずはパドックで各馬の気配を観察してスタンド前で返し馬チェック。それからおもむろに馬券を購入する。G1当日だとこうノンビリはできないだろうが、場内はガラガラで直前まで迷ってからでも楽に馬券を買える。いくら土曜日の午後とはいっても6週連続でG1が開催されているこの時期にしては入場人員が少ないのが少々気になった。そうこうしていると再び空腹感に襲われて焼きそばを買う。考えてみると1年前の京都新聞杯の日も競馬場で焼きそばの大盛りを食べた記憶が甦る。最近は疲労が抜けないだの体力が落ちたのと愚痴っているが、この旺盛な食欲を考えると単に普段が運動不足なだけかもしれない。“ビール1杯”と言いたいのを我慢したのも昨年と同じ。要するに進歩がないだけなのだろう。
「あれ、競馬場に顔を出すなんて珍しいじゃないっすか。いったいどうしたの?」 「四位が本命馬に乗ってるっていうから、どんなレースをするか見にきたんだよ」 「うん、今日はなにがあってもダービーの出走権獲らないとね。決めるよ、俺」 「そうか、3年連続ダービー制覇がかかってるんだったな。しっかり乗りや」
メインレースに管理馬を出走させている調教師に会うべく再び検量室近辺をうろついていると、四位騎手とバッタリ。その厳しい表情からレースに懸ける気持ちの強さが伝わってくる。「しっかり乗りや」と声をかけたにもかかわらず京都新聞杯はロードロックスターから勝負。地下道から上がってきたスタッフが「スイッチ入ってもうたワ」と話すように馬場入りの際はイレ込みが目立った。当然レースでもムキになってハミを噛む場面があり、四位騎乗のベストメンバーに交わされた直線半ばで失速。私の勝負馬券(馬連6─8、約20倍)は残念ながら1着3着となった。素直にベストメンバーから馬単を買えば楽に的中していたのに1番人気から買うのは主義に反すると妙なこだわりを貫いたのが敗因。歳を重ねる毎に頭が固くなっているのを実感する。
半年ぶりの競馬場はそれなりに刺激的だった。通用門を出て京阪電車の淀駅に向かう途中で、気付いたら“♪競馬場で会いましょう〜”“きっと空は晴れるでしょう〜”(1994年のJRAのCMソング)と口ずさんでいた。この曲を歌っていたヴォーカリストと私は同い年。オーティス・レディングを敬愛していたというあたりにも親近感を抱いていた。以前にノンフィクションライターの山際淳司さんの訃報を聞いたときは少々落ち込んだものだったが、彼の場合は私よりも年長でもあってストレートな実感はなかった。しかし、同じ1951年生まれの型破りの人間の死によって、遠からず訪れるであろう瞬間について珍しくも現実的な思考を巡らせることになった。そして、この日の夜は酒を飲みながらNHKで放映した忌野清志郎特集を繰り返し見た。
競馬ブック編集局員 村上和巳