カレンダーは日曜日から1週間がスタートするのが一般的だが、当然ながら競馬サークルのそれは月曜日から始まる。年度の区切りも一般社会とは微妙に違っており、2月末までが旧年度で3月1日からは新年度となる。今年のように2月28日が土曜で3月1日が日曜と月がまたがっている場合は非常にややこしい。土曜までは引退する調教師が管理している厩舎に所属している馬が翌日には新規開業調教師の所属となり、デビューする新人騎手も土曜日まではまだ見習い騎手扱いであり、レースに騎乗できるのは3月1日だけということになる。それだけではない。若手減量騎手の規定は基本的には年数で決められており、土曜までは減量の恩恵が受けられるのに日曜にはそれがなくなる人間も出てくる。出馬表を掲載する側にとってみれば実に厄介であり、同じ週であるにもかかわらず土曜と日曜ではデータの組み直しが必要となってくる。
2月28日付けで調教師を引退するのは関西では武邦彦、中尾正、浜田光正の三氏で、取材上ではそれぞれの方にお世話になったが、とりわけマスコミに協力的な浜田さんには随分助けていただいた記憶がある。私が厩舎取材班として初めて単独で厩舎を受け持つことになったとき、つまり右も左も判らない立場のときに取材したのが当時内田繁三厩舎で調教助手をしていた浜田さん。物腰は柔らかいが、その発言は冷静で理詰め。新米記者に対しても別け隔てなく接してくれた。騎手としてデビューしながら環境に恵まれず、しかも大事な時期に体を壊したこともあって結局はその道を断念。心機一転、住み慣れた関東を離れて関西で調教助手として人生をやり直した苦労人である。調教師試験を受けたのも5回や10回ではなく、一次試験を何度もクリアしているのに最終試験を通らず、毎年“合格当確者”として評判を集めながら辛酸を嘗め続けてきた。試験に合格したと聞いたときには第三者である私自身でさえも胸が熱くなったものである。
調教師になってからは「生まれ育った関東でG1を勝つのが夢」とよく話していたのを覚えている。その夢こそ叶わなかったが、厩舎経営が軌道に乗ってからは手がけたビワハヤヒデやファレノプシスでG1レースを次々と制覇。浜田光正ここにありとその名を全国に知らしめた。調教師としての認知度が高まってからもその立ち居振る舞いは調教助手時代とまるで変わらなかった。そういう人柄なのである。晩年は体調を崩したこともあって全盛期ほどの成績を収められなかったが、それでも新聞に載るコメントは細やかで馬に対する思い遣りが溢れたものばかり。真の意味でホースマンと呼べる人間のひとりだった。
週刊競馬ブックでは毎年引退する調教師の特集記事を組んでおり、浜田さんにも2月9日発売号にご登場願った。取材申し込みの電話を入れた際に声に力がないなと感じたが、カメラマンが撮ってきた師の写真に驚かされた。まるで別人のようにやつれていたのだ。厩舎担当者、特集記事の取材者に尋ねたところ“リンパ腫”を患っているという。厳しい闘病生活を送りながらも病名を公表して快くインタビューに応じてくれた師の気持ちを考えると感謝の気持ちと切なさが入り混じった。この原稿を書いているのは2月25日の午前中。小倉開催の最終週でバタついてはいるが、浜田さんが調教師として過ごす最後の日(28日)よりはいくらか時間の融通が利く。よし、今日は午後からトレセンのニー14棟へ行こう。アポなしの訪問で時間を割いてもらえるかどうかは判らないが、せめて「長い間ご苦労さまでした」のひと言だけは直接会って伝えたい。
競馬ブック編集局員 村上和巳