・ヴァーミリアン ・カネヒキリ ・サクセスブロッケン ・サンライズバッカス ・フリオーソ ・ブルーコンコルド ・ボンネビルレコード ・メイショウトウコン ・ワイルドワンダー ・ワンダースピード
1985年8月11日、函館競馬でデビューした鹿毛の牝馬が5頭立ての新馬戦で2着馬を5馬身引き離す圧勝。見守る側を驚かせた。つづくオープンのすずらん賞、そして3戦目の重賞・函館3歳Sでも2着馬にそれぞれ5馬身、6馬身差の楽勝。“来年の桜花賞馬決定!”と気の早い競馬マスコミは書き立てた。この年の夏は小倉競馬に出張していた私だが、この馬のデビューから3戦のレース映像を見て驚嘆した。2歳夏にデビューから3連勝すること自体も凄いが、もっと驚いたのはそのレースぶりだった。早熟なスプリンターならこれくらいの芸当はできると思いつつVTRをチェックしてみると、その走りはいつも軽やかで余裕残し。スピードに任せて一気に突っ走るといったタイプではないことが判った。430キロ前後と馬格こそないが、相当なポテンシャルを感じさせるその馬の名前はダイナアクトレス(ノーザンテースト×モデルスポート)といった。ちなみに、この1985年の第5回ジャパンCは“皇帝”と呼ばれた日本のシンボリルドルフが完璧な強さを誇示した。
翌1986年はダイナアクトレスにとって試練の年だった。3連勝後に脚部不安で休養を余儀なくされ、すみれ賞8着(3月22日、中山)、4歳牝馬特別2着(4月27日、東京)、オークス3着(5月18日、東京)と苦戦つづき。秋もローズS(10月12日、京都)を取り消す破目となり、結局は3戦未勝利で1年を終えた。この年の牝馬戦線には河内洋騎手を背に迎えたメジロラモーヌという歴史に名を残す馬が出現。それぞれのトライアルレースも含めて桜花賞、オークス、エリザベス女王杯を6連勝。堂々の牝馬三冠を達成した。メジロラモーヌについては私自身もその偉業を素直に認めているし、競馬のレース結果に対して仮説を立てるのは無意味だと承知しているが、それでもダイナアクトレスが満足できる体調だったならこの年の牝馬三冠レースは違った結果が出ていたのではないかとの想いがいまでも残っている。この1986年のジャパンCは英国のジュピターアイランドが勝った。
そして1987年秋、ダイナアクトレスは主演女優らしい輝きを取り戻した。京王杯AHをレコードで楽勝し、毎日王冠をも連勝。牡馬の一線級が揃った天皇賞では堂々2番人気の支持を集めたが、レース当日は重馬場となった。軽やかなスピードと切れを武器とする馬は道悪になると持ち味を殺がれるもの。勝負どころから反応が悪くなったダイナアクトレスは8着に敗れた。そして秋4走目として出走したのが第7回ジャパンCである。仏国のP・L・ビアンコーヌ調教師が送り出した欧州の名牝トリプティクが1番人気となったこのレースでダイナアクトレスは後方追走から直線で鋭く伸びて一旦は抜け出すかの場面を演出。東京競馬場のスタンドは大歓声に包まれた。結果は勝った仏国のルグロリューから4分の3、2分の1馬身差だったが、ジャパンCにおいて歴代の日本の牝馬としては最高着順の3着に入線して気を吐いた。全成績を調べるとこの馬の7勝はすべてが1800メートル以内であり、適範囲を遥かに超えた2400メートルでの好走は能力の高さを示していた。函館でのデビュー時は426キロだった馬体が毎日王冠当時には470キロまで増えてパワーアップしていたように、この時期がダイナアクトレスの競走生活のピークだったと思われるが、残念ながら当時は古馬の牝馬限定G1が存在しなかった。
1988年も現役生活をつづけたダイナアクトレスはこの年5戦2勝。スプリンターズSと京王杯SCを勝ったが、当時のスプリンターズSはまだG1に昇格する前のレース。つまり、とびっきり高いポテンシャルを持ちながらも不運にもタイトルとは無縁で引退したが、その記憶は20年が経過したいまも薄れることがない。繁殖牝馬となれば優秀な産駒を送り出すに違いないとその後に注目していたが、そこそこ活躍したステージチャンプ(1992〜1997)にしてもプライムステージ(1994〜1997)にしても結局はビッグタイトルに手が届かなかった。この血筋は華やかな桧舞台とは縁がないのだと諦めてどれぐらい時間が経過したことだろう。今年のジャパンCに出走してきたスクリーンヒーローの血統欄で祖母の名前を確認した瞬間は嬉しかったが、掲示板に馬番が載れば上出来だろうとしか考えていなかった。好発を切って絶好位でピタリと流れに乗る寸分の隙もないデムーロ騎手の手綱捌きも見事だったが、あのレースセンスの良さは間違いなくダイナアクトレス譲りだった。
競馬ブック編集局員 村上和巳
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