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「おい、A。なにやってたんだ、日曜の最終レース。ゴール前100メートルから全然追ってなかったじゃないか。あれで勝ち馬と1馬身差で2着とはクビ、3着とはアタマ。まともなら楽々差し切れていただろう。あんな競馬をして4着ではとても納得なんかできない。事情を説明してくれよ、ちゃんと」
レースの翌週の水曜日。調教が終了するのを待ち構えていた私は帰ろうとする若手A騎手に声をかけた。日曜日の最終レースで彼の馬の単勝とその馬を軸にした連複を買っていた私はレースが直線半ばで的中を確信した。他の有力馬が追い通しなのにAだけが手綱を抑えたままスッと伸びてきたのだから。前3頭が叩き合いを演じる残り100メートル地点で外から楽な手応えで並びかけたときには誰もがこの馬が勝つと思った。しかし、Aは馬上で左右の手綱を微調整するだけ。ステッキを入れないのはもちろん、馬の首を押す動作も見せずまったく馬なりでゴールインした。そんな彼の騎乗ぶりに不信感を抱いた私は翌週に冒頭の質問を浴びせた。
「うん、テキにも叱られたんだけど、あれは僕の技術の未熟さ。早めに内に入れてラチ沿いを走らせればなんとかなってたのに、ゴーサインを出すのがひと呼吸遅れて外に出すしかなかった。えっ、それじゃあ説明になってない?いや、判るひとは判ってると思うけど、あの馬は真っ直ぐ走れなくて追うと必ず内にモタれる。それに、ただ内にモタれるだけでなく、行くとこまで行ってしまって内の馬にぶつかったりラチに接触したり。相手がラチだったら自分の責任で済むけど、他の馬の前に入ったりぶつかったりしたら大きな事故につながる。だから最後の100メートルはハンドル操作以外なにもできなかった。馬券買ってたんならゴメン」
気色ばんでAを詰問した私だったが、その説明を聞いて絶句した。現場記者になってそう時間が経過していなかったとはいえ、それでも一応は競馬を生業にしている私。馬券で負けた悔しさもあってレースが終わった日の夜は何度もVTRを見た。なのに“内にモタれて追えない”という実態をまるで把握できていない自分が情けなかった。それだけではない。その馬の気質や過去のレースぶりをチェックしたり最終レースに乗っていた他の騎手の見方を取材するなり、他にもAの騎乗ぶりを検証する方法はいくらでもあった。なのに一切の努力をせず無神経な質問をぶつけた自分自身の思慮浅薄さや記者としてのレベルの低さをひたすら恥じた。
それからは馬の気質や走りの癖に必要以上に気を使うようになった。内外にモタれるとひと口で言ってもその原因は様々。口向きの悪さが原因の馬もいればトモに力がなくて追うと踏ん張りがきかずバランスを崩す馬もいる。更に取材を続けると生まれつき左右の脚つきが違って真っ直ぐに走れない馬もいたり、虫歯を痛がってその部分にハミが当たると嫌がる馬などもいた。サラブレッドも人間同様に千差万別でモタれる馬の取材メモをつくって個々の特徴を書き綴ったところ1年間で症例が大学ノート半分にもなっていた。
その後、前述のAが乗っていた馬は通常のハミからリングハミに換えてトレーニングを積み、モタれ癖はかなり矯正された。そして次なるレースの追い切りでは直線でステッキを数発入れてもフラつかずに真っ直ぐ走った。「この前は悔しい思いをさせたけど、今度はモタれないよ。万全を期して早めに内へ入れるつもりだし、もう1回狙ってみたら」と言われるまでもなく、私は次のレースでもその馬の単勝を買った。普通に走りさえすれば負けるわけがないと判断したのだ。勝利を確信した私は安月給の大半を自信満々に投入した。
「直線で内へ潜り込んだときは余裕綽々、これは楽勝だなと思った。ところが、いざレースではリングハミを気にしていたし、前日からソエも出てたみたい。本能的に内から力いっぱいステッキを入れたら苦しがって馬自身がいつもとは反対の外へモタれたので、そこで慌ててしまって……。また損をさせちゃったね」
生身の生き物である競走馬はなかなか人間の思惑通りに成長してくれない。直線で早めに内ラチ沿いに入れたAの乗った馬はゴール前で外側へ斜行して横の馬に接触。2着失格となった。真っ直ぐ走っていれば半馬身は抜け出していただろうに……。騎乗停止になったAには更に厳しい現実が待っていた。レース後に調教師から「あの馬には二度と乗せん」との通告があったのだ。競馬が終わったその日の夜、素寒貧になった競馬記者と騎乗停止になった上にお手馬を取り上げられた騎手は交互に深い嘆息を漏らしながら一緒に酒を飲んだ。パトロールフィルムが公開される遥か昔、いまから30年ほど前の苦い思い出である。
競馬ブック編集局員 村上和巳
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