・エリモハリアー ・キングトップガン ・センカク ・タスカータソルテ ・フィールドベアー ・ブレーヴハート ・マヤノライジン ・マンハッタンスカイ
1992年。この年のダービーは戸山為夫厩舎所属のミホノブルボンが圧倒的な人気を集めた。5戦無敗、スプリングS、皐月賞ともに他馬に影すら踏ませぬ一方的な逃げ切り勝ちを演じ、その強さについては誰しもが認めていた。しかし、私は新聞の予想でこの馬に本命を打てなかった。距離延長を危惧したのだ。マグニチュード×シャレーという配合からすれば2400メートルの距離は問題ないが、気性が勝っている上にレースぶりが一本調子。一旦リズムを狂わせると意外な脆さを覗かせそうな走りなのが気になった。デビュー戦の中京1000メートルで出遅れながら追い込んでレコード勝ちした凄味溢れる内容も逆に引っかかっていた。購買価格700万円のこの馬にはスピードが勝ちすぎている早熟タイプの匂いがしたのだ。戸山流のスパルタトレーニングで筋肉の鎧を纏ったサイボーグが歴史にその名を刻み込むのか、それとも将来はマイラーとして活躍する存在になるのか−ダービーを予想するにはブルボンの本質について考察して自分なりの結論を出すことが必要だった。
悩んだ挙句、私はマヤノペトリュースを本命にした。皐月賞(6番人気5着)を終えた段階で10戦3勝、成績上では一線級に遅れを取っていたが、早くからポテンシャルの高さを評価していた馬で、馴染みの厩舎所属なのも注目した理由のひとつ。頭の高い走りで心身ともに若く未勝利脱出に4戦を費やした時点では本格化は秋以降かとも思ったが、毎週馬房に足を運んで鼻面を撫でていればこそと気付くこともあった。皐月賞からダービーまでの僅か数週間で劇的に馬が変わっていたのだ。体には見違えるほど張りが出て気力も充実。調教でも力強い走りを見せるようになっていた。短期間にこれだけ変わる馬も珍しい。そう考えた私はG1の前夜になるといつも電話してくる競馬好きの友人たちに◎マヤノペトリュース、○ミホノブルボンの自分の予想通り馬連一点買いを勧めた。私なりにこの年のダービーは読み切れたつもりだった。
稍重で行われたダービーは予想通り1番人気のブルボンが逃げてペトリュースは中団につけた。すぐに隊列が決まって流れは落ち着く。スプリングSで後続を7馬身ちぎったブルボンは抜群の道悪巧者であり、ペースもまたこの馬に味方した。3角を過ぎても後続各馬は動くに動けず黙々と追走していた。しかし、4角手前から赤い帽子の1頭が動いた。それがペトリュースだった。ポカッと開いたインを巧みに捌いて一気に2番手に上がり、直線に入ると弾かれたように前との差を詰めた。しかし、ブルボンの脚色は最後までまるで衰えることがない。ラスト100メートル地点で逆に脚色が鈍ったペトリュースは一旦交わした人気薄(16番人気、終始2番手を追走)のライスシャワーにジリジリと差し返されていた。ブルボンに4馬身突き放されはしたが、2番手を争う2頭は叩き合ったまま並んでゴールイン。2着争いは長い写真判定に持ち込まれた。
その日の夜、友人たちは異口同音に「惜しかったな、ペトリュースがブルボンを負かしに飛び出さねば2着は安泰。お前の読み通りにバッチリ決まったのにな」と無念そうな電話をかけてきた。それぞれに対して私は「サラブレッドにとっては生涯一度しか挑戦できない夢のレース。そんな檜舞台で勝負に出ず着を拾うんだったら、そんな馬は最初から出るべきではない。現段階では他馬よりもブルボンの完成度が高かったということ。ただそれだけさ」と同じ台詞を繰り返した。勝つと信じて本命にした馬が4馬身もちぎられたのだから勝ち馬を称えるしか術はない。実際のところ、逃げて自分でレースを作れるブルボンは強かった。
ちなみに7戦無敗の成績を引っさげて三冠をめざしたミホノブルボンはハナを切れなかったこともあって菊花賞で2着に敗退。その直後に脚部不安を発症して2度とレースに復帰できないまま引退した。ブルボンの三冠を阻止したのはその後に名ステイヤーとしての地位を確立するライスシャワーだったが、この馬も古馬になって春の天皇賞を2勝(1993、95年)したものの、1995年の宝塚記念のレース中に故障を発生。予後不良となった。そして、私が惚れ込んだマヤノペトリュースもまた、ダービー後に2度とファンの前に姿を現すことはなかった。この年のダービーを思い出すたびに競走馬という生き物の置かれている環境の厳しさを痛感する。
※今週は「いままでにご覧になったダービーのなかで一番記憶に残っているのはどのレースか教えてください」という北海道のEさんのリクエストにお答えしました。
競馬ブック編集局員 村上和巳
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