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「ちょっと話しておきたいことがあるから、調教が終わったら時間をとってくれるかな」
馬上の相手にこれだけの声をかけるのに前夜からどれだけ心の準備をしてきたか。なかなか寝付かれなかっただけでなく、早朝のトレセンで各厩舎の出走予定馬を聞きまわる通常業務にもまるで身が入らなかった。こんな厄介で不似合いな依頼など引き受けるんじゃなかったと後悔したものの、断るに断り切れない状況でもあった。入院しているある調教師から電話が入ったのがことのはじまりだった。
「呼びつけたりしてすまんな。頼み事をして悪いんだが、ぜひアンタにやって欲しいことがある。最初はウチの調教助手連中にと考えたが、誰一人として首を縦に振らん。内容が内容なのできちんと相手に話す自信がない言うんや。相手を病室へ呼びつけて話せるようなことやないし、電話で伝えるのも好ましくはない。そこでアンタに白羽の矢が立った。ワシの一生に一度の頼みと思って聞いてくれんか」
いつもは泰然とした立ち居振る舞いで周囲を威圧している古老だが、病床で何度も頭を下げる様子は調教師席で見かける姿と同一人物とはとても思えない。躊躇しながらも「私たちのような記者が立ち入るべき種類のことではないと思いますので」と申し出を幾度断ったことか。しかし、結局は相手の言葉に押し切られる形で突然の依頼を引き受ける破目になっていた。
「遅くなってすみませんでした。いま、攻め馬が終わりました。今日は風が冷たいですから調教スタンドへ行って珈琲でも飲みながら話をしませんか?」
「いや、周りに人がいない方がいいから、このまま二人で厩舎まで一緒に歩こう」
いつになく硬い表情になっている私に気づいたのか相手は必要以上の言葉を口にせず肩を並べて歩きはじめる。馬場から彼の所属する厩舎まではかなり距離があるはずなのに、この日はその道のりが異常に短く感じる。スタッフが待つ厩舎に着く前に話を済ませなくてはと気は焦るが、喉がカラカラに乾いてなかなか言葉が出ない。その場から逃げだしたい衝動と戦っているうちに厩舎は目前に迫っている。もうこれ以上は逡巡できない。
「本来なら私なんかじゃなく、先生の口からきちんと伝えるべきことなんだが、いま入院中だからと無理やりに頼まれてしまって……。実は君がデビューからずっと乗ってる○○だけど、今度は別な乗り役に頼むことが決まった。だから明日の追い切りは乗らなくていい。まずはその連絡をと思って」
私を直視して話を聞いた後、フッと大きく息を吐き出した彼。その後は黙ったまま立ち止まって馬道の砂を指で拾い集め、一旦は掌で握り締めてからその砂を糸を引くように地面にゆっくりと落とす。それが終わるとまた砂を拾い集めて再びそれを地面に落とす。僅か数十秒ほどの出来事だったというのに私にはその行為が永遠に続くのではないかと思えた。そして補足説明を加えようとする私を遮るように彼が口を開いた。
「そういう話だったんですか。連絡ありがとうございます。僕自身の力不足が原因ですし、そう決まったんなら、残念ですがそれはそれで仕方ありません。それよりも、こんな面倒な役回りを引き受けてくれた上に、いろいろ気を遣っていただいて本当にありがとうございました」
デビューから数年、順風満帆に階段を上がっていた若者にすればお手馬を他の騎手に代えられるのは初めての経験だった。しかも、その馬はクラシックを狙えると注目を集める存在でもあった。負った傷はそれまでの騎手生活で経験したことがないほど深かったろうに、自身の感情を抑制するだけでなく私に対してまで見事に気を配ってみせた彼。順境にあるならともかく逆境に置かれたときこそ日頃は見えない本質が顔を覗かせるのが人間本来の姿だが、窮地に追い込まれた瞬間のこの真摯な態度には年齢差を忘れて畏敬の念を抱いた。
それから数年後、競馬関係者の信頼を一手に集める存在に成長した彼がG1を勝つことになるのだが、それは彼の人となりを知る誰もが想像していたことでもあった。そして、私は二度とこういった類いの不似合いな依頼を受け付けまいと心に決めた。一般社会でもトレセンでも携帯電話が普及していない時代の話である。
競馬ブック編集局員 村上和巳
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