・アサクサキングス ・アルナスライン ・ヴィクトリー ・サンツェッペリン ・タスカータソルテ ・ドリームジャーニー ・ヒラボクロイヤル ・フサイチホウオー ・ホクトスルタン ・ロックドゥカンブ
圧倒的に関東馬が強い時代。現代の競馬ファンには想像できないそんな時代があった。1983年のミスターシービー、翌年のシンボリルドルフと2年連続で関東馬が三冠を達成。競馬の最高峰に位置するダービーも83年から8年連続して関東馬が勝ち続けた。美浦には良血馬や高額で売買された馬が続々と集まり、質量ともに栗東を圧倒していた。関西馬で勝てるG1は短距離戦か牝馬限定のレースぐらいしかなかったのである。象徴的だったのが86年。当時は年間にG1レースが13あり、英国のジュピターアイランドが勝ったJCを除く12レース中で関東馬が11勝。関西馬は菊花賞をメジロデュレンが制した1勝のみという惨憺たる結果に終わった。
85年冬に栗東を襲った寒波は過去に例がないほど厳しく馬場凍結によって通常の調教ができない日が続いた。同時に調教で故障する馬の数も急増していた。そんな環境で満足できるトレーニングが積めるわけもない。翌86年の関西馬の不振は当然の結果でもあった。そんな非常事態を受けて進められたのが坂路コースの造成だった。多量の降雪がない限りは少々気温が下がっても通常の調教が積めて、馬の脚もとに優しいウッドチップを使用することで故障馬を減らすのにも有効。他にも心肺機能の強化、隣接する逍遥馬道を歩くことによる精神面のリフレッシュ等、様々な効果があったのだが、完成当初は故障明けの馬のリハビリ用として使われるばかりで大半の調教師が坂路トレーニングに対して懐疑的だった。
坂路がコースを延長して現在と同じ形態となったのは87年の暮れであり、その頃には戸山為夫調教師を筆頭に渡辺栄、小林稔、橋口弘次郎といった各調教師が次々と坂路調教を取り入れてレースで結果を出すようになっていた。そして、翌88年には長く続いていた東高西低の力関係が大きく変化した。G1全13レースの結果を振り返ってみると、米国のペイザバトラーが勝ったJCを除く12レース中で関西馬が10勝。関東馬はサクラチヨノオー(ダービー)とニッポーテイオー(安田記念)の2勝にとどまった。この年を起点にして西高東低の時代がスタートするのである。坂路調教のパイオニアといえばミホノブルボン、レガシーワールドの活躍で知られる戸山さんだが、不名誉な関西馬のダービー連敗記録に終止符を打ったのは松元省一調教師だった。
坂路調教馬ではじめてダービーを勝ったのは松元省一厩舎所属のトウカイテイオーである。当時は“短距離戦ならともかく、坂路のインターバルトレーニングだけで2400メートルをこなせるわけがない”という声が常識的だったが、坂路調教オンリーで挑戦したダービーを見事に勝利。仕上げの手腕の確かさを示した。この松元省一さんは実父の正雄さんが元調教師で実弟の茂樹さんが現役調教師、義兄弟に北橋修二元調教師がいる典型的な競馬ファミリーの一員。この社会に少なくない二世調教師のひとりだが、その言動には隙がなく論理的。常に毅然とした一種独特の雰囲気を漂わせている人物で、現場記者をしている頃に幾度か取材した際には馴れ合いや間の抜けた質問は厳禁と自分に言いきかせつつ、いつも緊張感を持って臨んだものだった。
「数年前から考えていましたが、今回、調教師免許の更新手続きをしませんでした。理由はいろいろありますが、5年前から家内が病気になり、(日常的なことを)全部自分でやらなくてはいけなくなり、調教師の業務に専念できない状況が続いています。まだ定年まで2年残していますが、元気なうちに引退してひと息入れようかと思うようになりました。引退後は本を読んだり音楽を聴いたりと、いままでなかなかできなかったことをやってみたいですね。ここまでの人生を振り返ってみると、調教師として満足できる生活を送れたと満足しています。故障の多い馬で気を遣いましたが、私にとっては(トウカイ)テイオーが一番の思い出です」
松元省一さんの記者会見が行われると聞き、通常業務を後回しにして栗東トレセン事務所の大会議室に駆けつけた。個人的に交流があったわけではないが、勇退の会見があるならその場に立ち会うべきだと素直に思えたから。フラワーパークやスティルインラブといった馬たちの活躍も記憶に新しく、坂路調教を取り入れて幾多の魅力的な馬を送り出した同師。人づてながら“凱旋門賞を勝って、現地での勝利インタビューにフランス語で答えるのが夢”と聞いたことがある。マイクの前で淡々と心情を語る様子を見守りつつ“3度の骨折を乗り越えて一年ぶりの有馬記念を制したトウカイテイオー。あの馬が無事だったら凱旋門賞制覇も夢ではなかったのではないか”―そんなことを考えていた。
競馬ブック編集局員 村上和巳