・ヴィータローザ ・タマモサポート ・ニホンピロキース ・ユメノシルシ
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6月30日午後。今年初めてトレセンに行った。いたるところで目にする『馬最優先・場内20キロ』の看板が妙に懐かしい。倉見門からハ―15棟に行こうとしたところ、トレセン内を縦断する形で大きな塀ができていてめざす場所に厩舎がない。本格的な厩舎建て替え工事が進行しているのだ。一瞬は途方に暮れたが、気を取り直して通りすがりの人々に各厩舎の移転先を聞き出し、なんとか目的地にたどり着くことができた。新しい厩舎は天井が高く全体にゆったりとしたつくりになっており、馬にとっても過ごしやすそうだ。 「去年見たときより体つきは大人っぽくなったけど、表情が優しいのは相変わらずだね」
「男馬にしてはキツいところがないのは入厩したときから変わらん。でもな、レースに行くと結構キツい顔つきになるんやで。戦いだってのが自分で判るんやろ。ところが、走り終わるとすぐにもとの優しい顔つきに戻ってる。自分で気持ちを切り替えてるんやろな。そんなリセットのうまさがいい結果に出てるんやないか」
去年の春以来だから馬とも人とも会うのは1年ぶりかそれ以上。馬房の奥でじっとしている担当馬に声をかけつつ「これ、食べさせてみ」と私に人参を手渡してくれた彼。つられて馬房から顔を出したところに人参を突き出すと、おっとりした仕草でポリポリと食べ出す。しかし、細くなっている先の方から半分ほどをかじったところで食べるのをやめて彼の方に視線を流す。その視線を受けとめると黙って頷き、包丁で残った太い部分を細かく切り刻んでカイバ桶に入れてやる彼。人参が細かく食べやすくなったのを確認してまたゆっくりと食べ出す。その様子を満足そうに見守る彼。こんな瞬間にも人馬が築き上げてきた信頼関係が垣間見られる。
「世界ランク上位馬とは思えないおっとりした子やね。でも、ちょっと過保護ちゃうか(笑)」
「ずっとこうやって一緒にやってきたんやしな(笑)。でも、ドバイ、香港と転戦してきたけど、全然手はかからへんかった。カイバはしっかり食ってくれたし、調教もそれなりに消化できた」
「でも香港のときは体が随分減ってたよね。苛々して食いが落ちたのかなって思ってた」
「ちゃうちゃう。この馬は輸送がアカンねん。馬運車や飛行機のなかではジッとして大人しいけど、移動しただけでガタッと減ってまう。だから帰国して競馬学校へ着いたときは可哀想なくらい細なってた」
「宝塚記念までの短期間によくあそこまで立て直したね」
「山元トレセンに行ったのが正解やったな。ゆったりした環境に置かれたことで気持ちが楽になったんか、あそこからいっぺんに元気を取り戻した。そんな精神力の強さには頭が下がるワ」
「ドバイでG1を勝ったから、宝塚を勝ったときはそんなに感激はなかった?」
「そんなことない。この歳まで大きなレースを勝てんかったから、もう俺は縁がない人間なんやと諦めとった。そやからドバイで勝ったときは嬉しかったで。でも、日本で勝ったときの気持ちはまた格別やった。ほんま、よう走ってくれたって心からムーンに感謝してる」
「去年の春に顔を出したとき、今度はクラシック勝ったらくるって約束したけど、あのときはひとつやふたつ、すぐに勝つと思って気楽に言ってた。思えばあれからここまで、長かったね」
「なかなか思い通りにならんのが競馬ってもん。やるだけやってそれで結果が出んかったらしゃあない。いつもそう考えて馬に接してきたが、まあ、長くこの仕事をしてればこんなこともあるんやな」
仁川での激闘からまだ6日が過ぎたばかり。馬房のアドマイヤムーンを見つめる彼の表情にはさすがに疲労が色濃く残っていたが、57歳にして初めて夢を掴んだ馬場政信調教助手が漏らす言葉には馬とともに生きてきた40年間の重みが感じられた。これからは他馬に目標にされる立場になるわけだが、馬場&ムーンのコンビならそんな重圧を二人三脚で乗り越えて王者らしいレースを見せてくれることだろう。
競馬ブック編集局員 村上和巳 ◆競馬道Onlineからのお知らせ◆ このコラムが本になりました。 「トレセン発 馬も泣くほど、イイ話」⇒東邦出版HP