・アストンマーチャン ・イクスキューズ ・ウオッカ ・クラウンプリンセス ・ジーニアス ・ハギノルチェーレ ・ハロースピード ・ピンクカメオ ・マイネルーチェ ・ルミナスハーバー
私が逆瀬川に住んでいたのは30年以上も前のことになる。逆瀬川というのは阪急電車今津線(宝塚―今津間)の途中にある駅名で、落ち着いた街並みが広がる閑静な住宅街だった。当時の私はいまでいうフリーターみたいなもので堅実に職に就こうとする気力もなく、日々をひたすら怠惰に過ごしていた。それまでは大阪京橋の安アパートに住んでいた私が家賃を滞納してそこを追い出され、やむなく転がり込んだのが友人の住む逆瀬川の文化住宅だった。文化住宅とはいってもバス、トイレ付きの2DKで若者二人が同居するには当時とすれば恵まれた環境だった。その友人は関西学院大学の学生で、それまで同居していた同じゼミの学生が米国に留学して生活空間に余裕ができたため、ホームレスの私に一緒に住まないかと声をかけてくれたのだった。こうして私の逆瀬川生活がスタートした。
この逆瀬川駅から今津方面行きの電車に乗ると10分ほどで仁川という駅に着き、下車して10分ほど歩くと阪神競馬場にたどり着く。春、夏前、秋、そして暮れと電車が超満員になる阪神競馬の開催期間。身動きできない混雑した電車のなかでこれだけの人間がいったいなにを求めて競馬場に行くのだろうかと、ふと不思議に思った。これが私と競馬との出会いだった。バイト代が入った直後の週末に初めて競馬場に足を踏み入れた私はその鉄火場のような殺伐とした雰囲気に圧倒されながらも馬券を購入してレースを観戦。最終レースが終わってジーンズのポケットをさぐってみると、1カ月分のバイト代の数倍にもあたるしわくちゃな紙幣の塊りが出てきた。いわゆるビギナーズラックだったのだが、この日を境にして私の生活は一変。週末には必ず仁川に通うことになった。1970年代前半の話である。
当時の阪神競馬場の形態はおむすび型の平坦コースで芝、ダートを問わず先行馬の活躍が目立っていた。“迷ったときは逃げ馬を狙え”が鉄則であり、困窮生活が続く私は最終レースになると残った小銭を掻き集めて人気薄の逃げ馬にすべてを託した。ときには大逆転勝利を収めることもあったが、肩を落として仁川までのおけら街道を歩くことが多かったのはいうまでもない。当初は鉄火場のように映った競馬場内の雰囲気が慣れるに従って心地よく感じられ、時を重ねるごとに競馬の奥深さに引き込まれて行った。このあたりから競馬は私の日常と切り離せないものになっていた。そして数年後には競馬に関わり合う仕事に就くことになるのである。
1991年に阪神競馬場の改修工事が行われて平坦で先行有利とされていたコースの直線に坂が作られた。スタンドも建て替えられたことでそれまでのこぢんまりとまとまった味わいのある馴染みの風景が消失したのは寂しい出来事だった。しかし、仁川に競馬場が誕生したのが1949年、古いスタンドは私より2歳上だったことになるのだから老朽化して建て替えるべき時期がきていたのも当然だろう。そして、2006年には芝の外回りの増設工事が進められ、同時に他のコースにも手が加えられてリニューアル阪神が誕生した。
この阪神競馬場の新コースについては11月27日発売の週刊競馬ブックで特集記事を載せている。モノクロ2ページ、カラー2ページの構成で、今回の改修のポイント、コース図、写真、試乗会の騎手の印象などを詳細に紹介しつつ新コースを徹底分析している。取材&執筆担当の芦谷有香と本誌画像製版部の杉本、永井、奥田が水、木、金、土と電話、画像ファイル貼付メールで再三再四意見交換してつくり上げた力作なのでファンの方には是非ご覧いただきたい。私が現場取材記者から内勤になって間もなく5年になるが、この間は一度も阪神競馬場に顔を出せずにいる。年内は無理でも来年の春には久しぶりに今津線に乗って仁川の桜を見に行こうかと思っている。
競馬ブック編集局員 村上和巳 ◆競馬道Onlineからのお知らせ◆ このコラムが本になりました。 「トレセン発 馬も泣くほど、イイ話」⇒東邦出版HP