・アイポッパー ・カンパニー ・コスモバルク ・シルクフェイマス ・ダイワメジャー ・ディープインパクト ・ハットトリック ・リンカーン
「おい、そこのアンちゃん。お前、たしかブックやったな。どうせ馬券でやられてばかりなんやろ。ひとつ特ダネ教えたるわ。誰にも言うたらアカンぞ。今週のメインに使うA厩舎のCって馬な、あれどうせ人気するんやろから外して馬券買え。ええか、一銭もいらんからな」 ある秋の話である。入社して間もない新米競馬記者だった私は年長の騎手Bの言葉にただただ戸惑った。この週のメインレースといえば今でいうG1であり、しかも、A厩舎のCといえば間違いなく有力馬だ。その馬を外して買えとの発言の真意がまるで判らなかった。BはCに乗ったこともなければA厩舎のスタッフでもない。その発言の根拠を尋ねてみても納得できるような返答はなく、陰影のある独特の表情で私を凝視するだけだった。 「ワシがいらん言うたらいらん。理由はそれだけや。まあ、信じる信じんはお前の勝手。好きにすればええがな。ただな、レースだけはしっかり見ておけよ」 木曜日の早朝取材でトレセンを駆け回っている合い間の一瞬の会話だった。普段はそう馴染みのない彼が唐突に声をかけてきただけでも驚きなのに、その話は信じられないほど刺激的だった。呆然と立ち尽くす私を一瞥した彼は何事もなかったかのようにステッキを左右に振りつつその場を立ち去った。その後ろ姿はいまでも映画の一場面のように覚えているが、右手に握られていたステッキは通常のサイズよりもかなり長かったような記憶がある。 人気を集めたCはデビュー以来初めての大敗を喫した。スッと好位のインに潜り込んだところまではいつものこの馬の姿だったが、外から他の馬に並びかけられるとビクッと頭を上げ、それを何度も何度も繰り返した。つまり、横に馬がくるたびにリズムを崩していたのである。掛かって折り合いを欠いたといえばそうなのだが、その頭の上げ方がいつになく過敏なものだった。レースは大波乱となって信じられないような高配当が飛び出した。 レース直後の検量室は普段以上に騒然としていた。人気馬Cで大敗した騎手は「ゲート入りまでは落ち着いていたのに、レースでは妙にカッカして自分のリズムで走れなかった。いままでにこんなことはなかったのに……」とだけ話して逃げるように控え室に移動した。他の有力馬の談話を取材すべく人込みをかきわける私の横でひとりの騎手が記者の質問に答えていた。「前半はモタモタしてハミを取らんから押っつけ通し。それでも人気馬マークでなんとかついて回れたし、最後もそうバテんかった。よう走っとるんちゃうか」そう話す騎手と視線が合った。Bだった。私の姿を確認した瞬間に黙って小さく頷いた彼はそそくさとその場を去った。彼が着ていた勝負服はこれでもかとばかりに何度も何度もCに並びかけていた人気薄の馬のものだった。 その日の夜は同じレースのVTRを数十回は見た。再生、スロー、コマ送りを延々と繰り返して。その結果、判ったのは、大敗したCはBの騎乗馬の執拗な競りかけによってリズムを崩していたということ。ただし、この程度の駆け引きはレースにおいてはよくあることで、それでCが潰されたとしたらこの馬はG1を勝つだけの精神力を持ち合わせていなかったという話になる。ただ、気になったのはBのステッキの使い方。終始、右手にステッキを持ち、テンからずっとステッキを入れ通しだった。それも、右の背後から大きく振り回すようなステッキワークは普段見かけることのないもので、あのステッキが規格より長く、しかも自分の騎乗馬以外の馬の体にも触れているとしたなら……。そう考えて再度VTRに見入ったが、細部まで検証することは不可能だった。 普段はほとんど会話を交わすことのなかった私に何故あんな風に声をかけたのか。検量室で視線が合ったときに頷いたのはなんだったのか。自問自答を繰り返してもいたずらに時間が過ぎていくばかり。これではいかんと数日後にBの姿を探し出して話を聞いた。「規格外のものなんて使ったら罰金食らうだけ。ワシは決められた長さのステッキしか使っとらん。それに、お前にCを一銭も買うな言うたんは通りすがりの冗談や。まさか真に受けたんちゃうやろな」と一笑に付されて私の推理は見事に否定された。このBの発言の真偽についてはしばらく悩んだが、否定されたことで頭の中のモヤモヤが消えて気持ちが楽になったのは事実だった。 それから数年後にBは騎手を廃業。馬に携わる仕事には就かずに田舎へ帰って行った。彼の姿が消えた数週間後に私のもとに差出人不明の郵便物が届いた。使い古したステッキが一本入っているだけだったが、差し出し人の真意が理解できないまま、いまでもそのステッキは私の部屋の片隅に置いてある。遡ること30年近くも前、パトロールフィルムの公開が現実のものになるとは到底考えられなかった時代の話である。
競馬ブック編集局員 村上和巳 ◆競馬道Onlineからのお知らせ◆ このコラムが本になりました。 「トレセン発 馬も泣くほど、イイ話」⇒東邦出版HP