|
先々週に馬の知能がどの程度かという話を取り上げた。馬自身の知能はウシ、ブタよりは優るがサル、イヌ、ネコよりは劣るというごくごく常識的な話だったが、“馬好き人間”のひとりとしてはその説に渋々納得しつつも寂しい思いをした。ただ、「馬は記憶力が非常に優れており、特に強い恐怖や痛みをともなった経験を一度すると、いつまでも忘れないという特徴をもっている」という点については思い当たる事例があった。
いまから約20年ほど前の夏。北海道のとある牧場にA、Bという2頭の牝馬が放牧に出されていた。Aは公営の所属馬でBはJRAの所属馬。どちらも鹿毛の3歳でやや細身、従順でほとんど自己主張をしない気性までもが酷似していた。その牧場で1カ月半ほど休養して鋭気を養った2頭は、夏の終わりにはそれぞれの厩舎へと帰って行った。
秋に向けて調整のピッチが上がりはじめた頃、早朝の調教を見ていた公営の調教師は腰が抜けそうになるほど驚いた。最下級条件に低迷していたはずのAが見違えるような素晴らしい動きを見せたのだ。「春とはまるで別馬。こんなに変わる例も珍しい」と驚きつつ目を細めた。「これならポンポンと勝ってオープンまで出世できる。秋が楽しみになった」と厩務員も満足げだった。
一方、トレセンに戻ってきたBは春以上に地味で目立たない存在だった。ある日の午後、調教師はBを馬房から外へ出してじっくりと観察した。毛色、体型はほとんど変わらないが、全体の雰囲気が微妙にBとは違う。「双子みたいにそっくりだけど、なんかおかしい。全然オレに甘えなくなったし」と厩務員も同意見。馬体検査をしてみたところ、以前に負った右肘の深い傷が消えてなくなっていた。この時点でAとBが入れ替わっていることが判明。両馬はそれぞれの本来の所属厩舎に戻された。
それからのBはなにかに取り憑かれたように一心不乱に走り続けた。G1トライアルのローズSを好走して自身の成長をアピール。距離の長かったエリザベス女王杯こそ凡走したが、暮れの牝馬限定レースで初の重賞制覇を達成。年が明けてからも牡馬相手に一歩も引かない力強い走りを見せ、引退するまでの間、バリバリのオープン馬として活躍した。間違えられた公営馬Aについての詳細は判らないが、3歳春までと比べてさしたる変化もないまま、例によってマイペースの競走生活を続けたようである。
「ワシなりには鍛えていたつもりだが、3歳春までは少々過保護だったんだろうな。放牧から帰った先が見ず知らずの場所で、なついていた厩務員もいない。環境が変わった上に、下級条件馬として厳しく扱われたこともショック療法になったのかもしれん。なにせ、帰ってきたときは眼つきが違っていた。期待していた馬だし、いずれはあれくらい走ったと思うが、まあ、あの件を契機に競走馬としての立場やいろんなことを自覚したんじゃないか」
オープン馬Bが引退して牧場へ帰って行った日、管理していた調教師は上記のような感想を漏らした。「着外ばかり続いているので馬主も引退を決めた。これが最後のレースだぞって馬に教え諭したら、突然2着に頑張った」なんて話を厩務員さんからよく聞く。サラブレッドは経験と訓練の積み重ねによって、人間の感情やある程度の言葉までは、おおまかに理解できるようになるとか。ならば、トレーニング次第ではサル、イヌ、ネコを凌ぐ知能を持つ馬が誕生する可能性もありそうに思うのだが、どうだろうか。
|
競馬ブック編集局員 村上和巳
|
◆競馬道Onlineからのお知らせ◆
このコラムが本になりました。
「トレセン発 馬も泣くほど、イイ話」⇒東邦出版HP
|
copyright (C) Interchannel,Ltd./ケイバブック1997-2004
|