馬が帰ってきた日(後編)
――昭和53年4月10日、うららかな春の日で爛漫と咲き乱れる桜花のもと、美浦トレセンの開場式が日本中央競馬会により盛大に挙行された―― 何とも風情ある表現ですが、『日本中央競馬会美浦トレーニングセンター開発の記録』にはトレセン開場当日の様子がそう紹介されています。 栗東トレーニングセンターの開設から遅れること8年余り、美浦トレーニングセンターもついにこの日から本格稼動となりました。 ところで、約2000頭もの競走馬、そして、5000人もの関係者が突然やってきた美浦村には、もともとどのような歴史があったのでしょうか……。 遡ると、この美浦村は昭和30年に木原村、安中村、舟島村の一部(舟子)が合併して誕生した村でした。農業、そして霞ヶ浦における漁業が産業の基幹であり、合併した昭和30年には9894人と、1万に近い人口を数えたそうです。 しかし、その後に日本は高度経済成長期を迎えます。この時期、都市部で労働力の需要が拡大すると、それに応えるように地方からは若い世代の流出が始まりました。これは当時、全国地方部にある市町村の多くが直面した問題ですが、美浦村もその例外ではありませんでした。1万人近かった人口は約8000人にまで漸減。村をあげての工場の誘致活動なども大きな成果を得られぬまま、過疎化対策が喫緊の課題となっていたのです。 そんな時に持ち上がったのが、中央競馬のトレーニングセンター構想。過疎化対策の有効な一手として、美浦村はいち早くトレセン候補地に名乗りを上げたのです。 ちなみに、美浦村で生まれ育ち、トレセン建設以前の美浦を知る地元出身の方に伺った話では、トレセンが建設されたあたりは地元の人でもあまり足を運ばないような、本当に何もない場所だったとのことです。確かに、山林72%という数字、そして、住居の移動が僅かに1世帯だったという事実がその証左と言えるでしょう。 ならば、たとえトレセンができても自分たちにはさして影響なし≠ニ考えたかと言えばそうでもなく、やはり何千人もの人が一挙に引っ越してくる。それも、都市部からこの長閑な村に……≠サんな思いから、期待半分、不安半分で昭和53年の春を迎えたとのことでした。 美浦村が思い描いた通り、トレセン開設後の村は人口も税収入も格段に増え、また、トレセンが多くの雇用を創出しました。更にはインフラの整備も進んで、美浦村は県内でも有数の豊かな村になったのです。だからこそ、平成の市町村大合併もどこ吹く風。原子力発電所を擁する県北の東海村とともに、美浦村は茨城にふたつしかない孤高の村≠ナ在り続けるのです。 勿論、美浦村の豊かさは決して転がり込んできた幸運≠ナはありません。それは多くの関係者の尽力によって掴み取ったもの。前編でも触れましたが、どの資料を見ても、特に難航したのが用地の買収だったと記されています。『開発の記録』では、この土地の買収の過程を3年余の不眠不休に近い用地折衝≠ニ紹介しています。確かに地権者との交渉にあたった当時の美浦村関係者の方々には、そんな表現が決してオーバーではないほど大きな苦労があったのでしょう。 ところで美浦村はトレセンの開設に際し、それ以前の地名(大字名)だった信太(しだ)≠ニ興津(おきつ)≠、いま、私たちにも馴染みのある美駒≠ヨと改称しています。勿論、信太、興津と呼ばれた地域のすべてが改称されたわけではなく、あくまでトレセン敷地内のみを対象にした改称でしたが、これは、トレセン内にふたつの大字が存在し、さらにはその下に約80もの字名が混在していたためで、改称は競馬会側からの要請だったとのことです。 しかし、旧来の地名である信太≠ヘ、歴史的に見ても非常に由緒ある名前であり、また、この地がもともと馬文化と深い関わりがあったことを物語る名前でもありました。 歴史を古代まで遡ると、この地はかつて常陸国の信太郡と呼ばれていた地方でした。信太郡が設立されたのは653年。この信太郡は当初、現在の阿見町竹来付近を中心地としていたようですが、やがて現在の美浦村信太地区、つまり、美浦トレーニングセンターへと中心を移して発展し、その後に郡衙(ぐんが・郡司が政務を司った役所)が現在の稲敷市上君山付近に置かれたと推定されています。 そして、この信太郡に置かれていたのが、古代の官営牧場である諸国牧のひとつ、信太の馬牧≠ナした。調べてみると、この馬牧があった場所に関しては諸説あるようです。しかし、信太の馬牧と縁の深い(後述)茨城県稲敷市の大杉神社には、その馬牧があった場所が現在の美浦村信太付近と伝わっているようですし、何よりも、現代に信太≠フ名を残す地こそが、信太の馬牧があった場所と考えるのが自然かもしれません。 そう思うと、美浦トレーニングセンターの開設は、1000年の時を経て信太の地が再び馬の里になった≠サんなできごとだったと言えるのではないでしょうか。前編では触れることができませんでしたが、今回のコラムのタイトルを『馬が来た日』ではなく、『馬が帰ってきた日』としたのは、そんな歴史を踏まえてのことでした。 さて、稲敷市の大杉神社と信太の馬牧には深い縁があると述べましたが、最後にそのいきさつを紹介しておきましょう。 信太の馬牧が存在していた当時、そこには馬櫪社(ばれきしゃ)と呼ばれる馬の体を守護する神社が鎮座していました。創建は862年と言われています。しかし、馬牧の消滅とともに神社は現在の稲敷市幸田の地へ、更には、同じ稲敷市にある大杉神社へと遷座されたのです。遷座されたのは平安末期とも鎌倉時代とも言われています。 その大杉神社では昭和初期まで駒牽祭(こまびきさい)と称した奉納競馬が催されており、馬櫪社はその奉納競馬が行われる境内の奥山を見渡す場所に鎮座していたとのことです。奉納競馬で走る農耕馬たちをそこでずっと見守ってきたのでしょう。 その後、生活様式の変遷とともに農耕馬が姿を消すと、奉納競馬も消滅しました。馬が姿を消すと、馬櫪社の存在もまた人々から忘れられていったのですが、2002年に場所を移して社殿が再建され、同時に、この神様は馬櫪社から勝馬神社へと名前を変えました。こうして、かつての馬櫪社は大杉神社境内の一角に勝馬神社として鎮座し、現在は美浦トレセンから多くの関係者が参拝に訪れる場所になっています。 古くは朝廷に献納される貢馬(くめ)を守り、その後は奉納競馬に集う農耕馬を守り、そして今は美浦トレセンの競走馬を見守っているこの馬の神様。古い蹄鉄に混じって奉納(?)されている何枚もの馬券を見つめながら、「時代は変わったものだ……」そう呟いているかもしれません。
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