レジェンドの 取材ノートから −その2
◆まずは前編からの続きを 先月の担当回では、ダービー号の特集ページの取材余話、ということでカブラヤオーの話題を中心に話を進めましたが、菅原泰夫騎手のダービーと言えばもう一頭、印象深い馬がいます。 平成元年、第56回日本ダービーで2着に敗れたリアルバースデーです。 こちらも週刊競馬ブックGT号ではお馴染みになっている『おもひでの名勝負』の方で、映画監督の篠原哲雄さん(現在、最新作の「花戦さ」が公開中)が昨16年の菊花賞号で取り上げておられました(菊花賞は3着)。 そこでは当然、篠原さんにとってダービー初体験となった2着時の思い出も綴られていたのですが、上記の競馬ブック・ダービー号の特集ページの取材時、ダービーがいかに特別なレースか≠説明してくださるくだりで、「カブラヤオーとは別の馬なんだけど」と菅原さん本人から名前が挙げられたのもこの馬でした。 「どうして負けたのかわからなくてさ。完璧に乗れたのになあって。レースの夜はずっと考え込んじゃって眠れなかった。佐藤先生(佐藤林次郎調教師)は満足してくれて、良くやってくれたって言ってもらえたんだけど、自分としてはどうにも納得いかなくて。今でも、何で負けたかなあ、って思うことがあるんだよね。他のレースではこんなことないから」 史上初めて茨城産の芦毛馬がダービーを制した年。それから30年近く経た現在まで、半馬身及ばずに敗れた悔しさが鮮明に甦ってくるというのですから、これが勝負の世界に生きる人の性なのか業なのか、と思わせるエピソードではないでしょうか。 ◆レジェンド同士の接点 さて、というわけで菅原さんのエピソードを、長くなることを承知のうえで続けます。 ピーアールセンターさんが発行しているJRAの機関紙(揶揄ではなく)にぱどっく≠ニいう小冊子(?)があります。機関紙ですので一般の皆さんは勿論、私どももしょっちゅう目にするわけではないのですが、たまに閲覧できるチャンスがあって目を通すと、さすがに興味深い記事が少なくありません。 で、これは当時、実際に目にしたわけではなかったのですが、 三冠王特別対談〜バットとムチに賭けるプロの心意気 と銘打った記事が掲載されました。 対談者というのが他ならぬ菅原さんと、プロ野球、当時のロッテオリオンズに在籍していた落合博満氏です。 菅原さんが三冠騎手になったのがミナガワマンナで菊花賞を制した1981年(昭56年)。で、ホリスキーで菊花賞を連覇した82年に、落合氏が史上最年少で日本プロ野球4人目の三冠王に輝きました。 その翌年の1983年(昭58年)のぱどっく≠Q月号と3月号の2回シリーズで対談は掲載されました。 今回、この稿のためにJRAにバックナンバーを確認させていただいたのですが、これがまた滅茶苦茶興味深い内容。そのレポートだけでも記事になりそうですが、ますます本筋から外れかねないので、ここではひとまず置いておくとして…。 この対談、落合氏も快諾したのだそう。 落合博満氏の来歴については、私などがどうにかできる類のものではありません。たとえ専門外なりに扱うとしても、それこそ字数が足りなくなるに決まってます。 とにかくザックリと、本当にザックリとで恐縮ですが、NPB(日本野球機構)史上、傑出したプレーヤーという説明に留めておきましょう。 ただ、決して早熟型の選手ではありませんでした。というより、プロ入り前は大変な紆余曲折があったことが知られています。 その彼の、紆余曲折時代の話。彼がドラフトで指名される前、アマチュア時代に在籍していたのは東芝府中の社会人チームでした。 休日に、か、練習の合間に、なのかはわかりませんが、とにかく気分転換に訪れていた東京競馬場。そのパドックの最前列(?)で、一人の騎手が気になった。それが菅原泰夫騎手だった、ということなのかもしれません。 落合氏が東芝府中に籍を置いたのが74年から78年(プロデビューは79年)とのことですから、ちょうど菅原さんがカブラヤオー、テスコガビーで春4冠を達成した時期と重なるのですが、自分自身の行く末が定まらずにモヤモヤッとしながら日々を送る中で、彼の目に菅原騎手がどう映ったのか。これはたまらなく興味深いことでした。もしかして、それから10年くらい後の自分と同じような感覚がなかったのだろうか…と。 そのあたりを思い巡らせて以降、妙に落合氏には親近感が沸いたものです。 それにちなんだもうひとつ印象深い、あまり知られていないとっておきのエピソードがあります。自分もその場に居りましたので、紹介させていただきます。 菅原泰夫騎手の引退記念パーティー(92年3月29日)の席で、当時は中日に移籍していた落合氏からメッセージが届けられたのです。 シーズン入り直前のため会場に行けないことを謝し、現役時代の労いと今後へのエール。それが録音によるボイスメッセージ≠ナ会場に流されました。 そして、落合氏のサイン入りバットが、代理としてメッセージを届けたスポーツ紙の記者さん(社や名前は失念しました)から手渡されました。無論、今も菅原さん宅にしっかりと保管されています。
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