時を駆ける駿馬
この6月に六甲山系の西の端っこを訪れました。JR、神戸市営地下鉄、神戸電鉄と乗り継いで鈴蘭台駅で下車し、目指したのは六甲全山縦走路のひとつ菊水山です。 その山頂からは、神戸の街並みと大阪湾がまさに一望のもと。左手にはポートアイランドや神戸空港。右手には明石海峡大橋、そして、その先に浮かぶ淡路島。更には、紀伊半島や四国の山々まで望見できました。 そんな絶景をしばらく堪能した後、帰路は鈴蘭台に戻らずに長田の街に向かいました。山頂から350mほど下って神戸市の水瓶・烏原貯水池へ。そこからまた100mほど登り返すと、そこにあるのがひよどり展望公園。そう、一の谷の戦いにおける逆落とし≠フ舞台として伝わる、あの鵯越です。 逆落としを巡っては、この鵯越と、そこから更に西に行った須磨浦近くの鉄拐山(てっかいさん)との双方が、「こちらが舞台」と主張して譲らず、この六甲山系西部はちょっとした歴史の紛争地域=B鵯越と一の谷が8キロも離れていることが論争の最大の要因ですが、そもそも馬で駆け下りたこと自体が創作といった説も根強く、この歴史的大奇襲は、諸説入り乱れる形で現代に伝えられています。 ひよどり展望公園に着いた私も、逆落としの舞台と伝わる急斜面を上から見下ろし、また、下からも見上げてみたのですが、まあ、そうしたところで何が分かるというわけでもありません。 ただ、逆落としの舞台は岩肌が露出している断崖を想像していたので、「これだけ樹木が生い茂っていたら、途中で木にぶつかるでしょ」というのが率直な感想。平安末期は草木も生えぬ崖だったのかもしれませんが……。 さて、どこまでが史実でどこからが創作かは別にして、この逆落としの合戦譚、主役の半分は人間ですが、もう半分は断崖を勇猛果敢に駆け下りた馬であることは間違いありません。総大将義経が跨る愛馬が太夫黒(たゆうぐろ)なら、敵陣一番乗りの熊谷直実が駆ったのが権太栗毛(ごんたくりげ)、優しくて力持ちの坂東武者、畠山重忠に背負われて崖を下りたとされるのは三日月(みかづき)です。まあ、三日月の逸話はいくらなんでも荒唐無稽、明らかな創作でしょうが、いずれにしても、馬の存在なくしてこの大奇襲を語ることはできないのです。 ところで畠山重忠に背負われたと伝えられる三日月ですが、現代の競馬史にもその馬名を見出すことができます。一頭は1994年愛国産のミカヅキで、生涯成績は3戦1勝、2着1回。そしてもう一頭が月友産駒で1947年生まれのミカヅキで、こちらは生涯28戦して12勝、2着2回、3着3回。目黒記念3着という成績が残っています。あるじに背負われて……、と少々不名誉な逸話が残る元祖≠ニ違って、こちらの三日月、いや、ミカヅキはなかなかの活躍馬のようでした。 源平争乱の時代に話を戻すと、『平家物語』には一の谷の合戦以外にも多くの名馬が登場します。物語序盤に出てくるのは木の下(このした)と南鐐(なんりょう)。2頭を巡る子供の喧嘩のような諍いは広く知られた話です。 また、佐々木高綱と梶原景季が源頼朝から拝領した、池月(いけづき)、磨墨(するすみ)の話もまた有名。この2頭の名馬を巡る確執の中、高綱と景季は宇治川で先陣を争います。結局、その先陣争い、高綱が「お前の馬の腹帯が緩んでる」と嘘をつき、景季が下馬している隙に一番乗りを果たしたというのですから、これまた、武士の矜持≠ニはほど遠い子供の騙し合いのような話です。 そんな武士の矜持はさておき、池月と磨墨もまた競走馬として現代に再登場しています。ともに複数のイケヅキ(あるいはイケズキ)、そしてスルスミの名が過去の記録に散見されますが、奇しくも同じ1947年生まれの競走馬の中にイケヅキとスルスミの名が揃って見つかるのは興味を惹かれるところでしょう。 この1947年生まれのイケヅキはトキノチカラ産駒の牝馬で平地7勝、障害10勝。一方、スルスミの方はトシシロ産駒でこちらも牝馬。地方競馬で走っていたようです。ただ、宇治川の合戦ほどではないにせよ、これももう半世紀も前の話。この2頭に関して、それ以上の詳しいことは分かりませんでした。 700余年の時を駆け、昭和の時代に甦ったこの2頭。競走馬としては果たしてどちらが優秀だったのでしょうか? 僅かな記録から推測する限りでは、宇治川の合戦と同様、イケヅキに軍配が上がったように思えますが、まあ、甦った磨墨、いや、スルスミが主人の無念を果たしたとしても、また、果たせなかったとしても、この2頭が同時期に現われたというのは、少々出来過ぎ≠フ話。更には、前述したミカヅキも同じ1947年生まれなので、これら3頭、もしかしたら昭和の世でも何かしらの繋がりがあったのかも知れません。 ※たゆうぐろ≠ネのかたいふぐろ≠ネのか、また、池月≠ネのか生月≠ネのか生食≠ネのか、馬の名前からして諸説があるようです。
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