レジェンドの取材ノートから−その1(語り継ぎたい記憶・余話)
競馬を始めた頃の馬券の買い方。覚えてらっしゃいますか? これ、ある程度キャリアを積んだ皆さんへの質問になってしまいますけど、どうでしょうか。当然ですけど、競馬を始めた頃の購入法なんて、それはもう人それぞれ、千差万別に違いありません。 しかし初心者の怖い(?)ところは、熟練者(と呼んでいいかどうかはともかく)が当たり前に理解できていて、取り合わないような事象に目を向ける点。それで的中させてしまう。 この、いわゆるビギナーズラック≠ノ関しては、例を挙げだすとキリがないので、本格的に考察するのは、また別のところで、と思います。 ただ、それとは別にして、馬券購入の際のひとつの戦法として、ビギナーを卒業したかな?と思える比較的早い段階から、ベテランになっても使える…と言うか、程度の差こそあれ、多くの人が使っているものがあります。 騎手買い です。 簡単に言ってしまえば、買おうとする馬に対して、いろいろと不安材料はあるけれど、「乗っているのがこのジョッキーだから」という理由だけ(!)で目をつむって馬券を買うという、いわば騎手任せ≠フ購入法。 私が競馬を始めて最初にそれを用いたのが、何を隠そう菅原泰夫騎手でした。 飄々とした風貌と、思い切りのいい騎乗のギャップ。しかもそのレース運びには明確な意図が感じられ…と、これはさすがに当時はまだ思ってなかったかもしれませんけど、何しろこちらがイメージしたレースをしてくれる騎手、と感じていたからでしょうか。 軸馬を選ぶ際には勿論、他の馬を軸馬にしたとしても、彼の騎乗馬を紐に必ず押さえておく、みたいな。そのうえで馬券の相性が良かったわけですから、まったくもって個人的には92年の引退というのは早過ぎました(引退当日が45歳なら、特別早いってことはないですかね、すみません)。 その菅原騎手が翌93年に調教師に転身し、この2月に定年引退。弊社週刊競馬ブック5月22日発売の日本ダービー号で、特集ページ『語り継ぎたい記憶』に登場いただいのはご存知の通りです。 その特集ページで触れられなかったことのいくつかを、吉村昭先生をマネて、とは畏れおおくて言えませんが、取材ノートから≠ンたいな体裁でもって、今回取り上げさせていただきます。 前置きが長くなってしまいました。 週刊誌で取り上げたのは1975年、第42回東京優駿こと日本ダービーのカブラヤオー。 40年以上も前のレースですから、いささか時代が古過ぎる、とのお叱りを受けておかしくなかったかもしれません。が、どうしてもこのレースを扱いたかったのは、唯一無二≠ニ言っていい凄まじいレース内容で、かつ現在の競馬に照らし合わせても示唆に富み、だからこそ『語り継ぎたい記憶』に取り上げるにふさわしい、と思ったから。 そして、手綱を取ったのが他ならぬ菅原泰夫騎手だったから、でもありました。思い出話として、直接聞いてみたかったのです。 通算成績13戦11勝。皐月賞、ダービーを制して75年の年度代表馬に選出。9連勝はいまだに破られていないJRA記録。といったような経歴や、皐月賞を1000m58秒9で逃げ切り、ダービーではそれを上回る58秒6で逃げて押し切った、といった細かい戦績については脇に置いておきますが、なにゆえそこまでの逃げにこだわったのか。 これもまた有名なエピソードで、週刊誌でも触れないわけにいかなかったのですが、カブラヤオーは極端な怖がりで、馬群に包まれたり外から被せられたりするのを嫌ったからでした。 −ここから先はスペースの関係上、週刊誌には書けなかったことになります− 上記の極端な怖がり≠ナある件について、モノの本やウェブ上では「幼少期に他の子馬に蹴られたこと」が影響しているかのように書かれています。 それを確認までに菅原さんに伺うと、 「うーん、どうもそういうことだけじゃないみたいなんだよね。牧場の小さくて狭いパドック(柵に囲まれた放牧スペース)に一頭で放されてて、売れ残ったもんだから、ずっと他の馬との接触がなくて置かれてたそうなんだ。それで極端に周囲を怖がるようになっていったみたいで」と。 稀代のサラブレッドの幼少期のエピソードとしては、なんだか切なくなってくる話。遅生まれ(6月13日)の影響があったかもしれませんが、それだけ特別≠ネ何かを幼少期に身につけたことは確かだったのでしょう。 「入厩してきた時は、なんだこのクマゴローみたいなのは≠チて感じでさ。ボサーッとしてて、馬っぷりも特に目立つところはなかったしね。あんなに走るなんてとても思えなかった。それがレースを重ねるごとに、この馬、もしかすると凄く走るぞ≠ネんて変わっていって。ただ、でも本当に、異常に怖がりだった。前の馬が尻尾を振っただけで横に飛びのいてしまうような」 だから、 「馬が現役でいる間は誰にも言わなかった。他に知っていたのは菅野と赤羽(厩舎の後輩で元騎手)と厩務員くらいかな。マスコミに聞かれたら、何をしゃべってもいいけど、これだけは絶対に言うな、って緘口令を敷いてさ。結局、引退するまで表には出さなかったよね。いや引退後もしばらくは言ってなかったかな」 そういう馬だからこそ、普段の調教でも気を使わざるを得ませんでした。 美浦トレーニングセンターが開場される前の話なので、調教の時間や頭数自体もそうですが、現在とは事情は違っていたとは思われます。それでも、他馬がどういった動きをするかに気を使うのは、やっぱり本番のレース中の比にはならないはず。 ところが、ダービーの当該週の追い切りでは、とても都合のいいことが起きます。 「NHKから追い切りの様子を朝のニュースで流したいってオファーがあってね。放送時間に合わせるために待っていたら、馬場にいるのが一頭だけになって、何の不安もなく追い切れたんだ。実際には生では放送できずに、録画したのをうまく生放送みたいに流したみたいだったけど」 と懐かしげに笑います。 それにしてもNHKのニュースで調教を生放送って、なかなかに画期的というか挑戦的と言うか。今は様々な事情(?)でこうはいきませんが、それだけ一般的にも大変な注目を集めていた馬だった、ということでしょう。 そして結果はご存知の通り。まあ考えられないようなラップを刻んで、ゴール前でもうひと伸びして2冠を達成します。でも、レース後の感想については意外な答えが…いやむしろ、職人気質を感じさせる彼らしい答えだったかもしれません。 「ホッとしたと言うのかなあ。勝つのが当たり前の馬だったからね。嬉しいのは嬉しいんだよ、そりゃあもうね。ただね、ゴールした後、すぐに3冠獲らなきゃ≠チて思ったんだ。そのくらいの馬だと本当に思ってたし、獲らせてやりたかったからね」 当時はまだ3冠馬は過去に2頭しかいませんでした。極端な怖がり≠ニいう大変な弱点を抱えながらも、苦労した末に手にした2冠の栄誉。そしてその更に先にある栄誉を馬と一緒に獲るのだ、と迎えた秋。削蹄の際のアクシンデントで屈腱炎の症状が出てしまいます。 「京都に行って最終追い切りまで自分が乗ったのね。使おうと思ったら使えないわけじゃなかったけど、3000mを走るわけだから。抜けて強いのはわかっていても、レースは甘くないし、負けちゃいけない馬だし。それ以上に何かあったら取り返しがつかないし」で頭を悩ませます。 そして最終的な決断を、師匠である故・茂木師から委ねられます。当時29歳の、まだ中堅と呼ぶのも早かったはずの騎手には想像を絶するプレッシャーがあったろうと思われますが、「お前に任せるから」と言われて出した結論が菊花賞回避≠ナした。 「いろんな人からさんざん言われましたよ。使えたんじゃないか、出走していたら勝てていたのに、なんてね。新聞記者さん達から逃げるのに大変だった(笑)。でも、間違ってなかったと思う」 この時の割り切り方、腹の括り方は、並の神経の持ち主には難しいのではないでしょうか。その後に勝負師≠フイメージが定着する騎手の資質、素地としては十分過ぎるエピソードと言えると思います。 古馬になってからは、満足な結果を残せずに引退することになりましたが、種牡馬としてグランパズドリーム(ダービー2着)やミヤマポピー(エリザベス女王杯勝ち)を出すのですから、菊回避≠フ決断は確かに正解だったのでしょう。 いまや伝説になった愛馬について改めて振り返ってもらうと、 「行き切りさえすれば強い、というタイプの馬だったけど、心肺機能も高かったんだと思う。何よりもね、背中がね。ほら、走る馬は背中がいいって、よく言うでしょ。あの感じ。口で説明するのは難しいんだけど、何時間跨っていても心地良くて疲れないのね。あんな馬、滅多にはいないよね」 牧場で売れ残ってクマゴロー≠ネんて言われた馬が、年度代表馬に選出されて、長く名前が記憶されている。こういう競馬は単純ながら人を惹きつけませんか。 これ、古き良き時代≠ナ片付けていいこととは思えないのですが…。 この件に関しては、もう少し菅原泰夫元騎手、調教師絡みのエピソードを追いつつ考えていきたい、と、まさに個人的に思いますので、『週刊トレセン通信』では異例となりますが、続きはまた次回に、ということで今回は失礼させていただきます。申し訳ございません。 美浦編集局 和田章郎
copyright (C) Intergrow Inc./ケイバブック1997-2017