『ネットタレント(?)増殖中』
7月に入って一年も折り返し。年々、時間の経過が早く感じられるようになりますが、つい先日観たテレビ番組によると、10才の時間の進み方を“1”とすると、60才では2.5倍(!)の速さで進む、という具体的な数字が提示された研究結果があるそうで、ということは、年齢を重ねるにつれ光陰矢のごとくなるのは、気のせいではなく、科学的に証明されているってことになるんですか?違う?
ともかく、1年が半分過ぎました。ということで、競馬のことはここではさておくとして、上半期を振り返ってみますと、印象に残ったことのひとつに“自称インターネットタレント”の事件がありました。
ユーチューブに代表される動画投稿サイトが現れて、一気に広まったのはこの10年くらいになるのでしょうか。
その10年前頃と言えば、美浦の矢野進厩舎に04年生まれの“ワタシメダチタイ”という馬がいました。一風変わった馬名をつけることで有名な小田切有一氏の所有馬です。 06年暮れにデビューしたのですが、その当時ブックログの旧バージョンで取り上げたことがあったのです。人が“目立ちたい”と考える意識に絡めて。 勿論、女の子がちょっぴり背伸びして精一杯おしゃれする姿を慈しむ目線。それが名付け親の発想なのだろうとは推察されます。 でも一方で、自己顕示欲ですか。これ、何かしら原稿を書こうなんて考えている私どもは言うまでもなく、一部の例外的なケースを除いて、程度の差こそあれ多くの人が潜在的に持っているモノ。 そういう人達の心理面を、からかうというか面白がる部分も感じ取れるな、と思ってクスッとさせられたものでした。
“自称インターネットタレント”に話を戻しましょう。 ごくごく普通の一般人として、彼の存在自体は事件がテレビ、新聞で報じられるまで知りませんでしたが、無免許運転を自ら撮影して動画投稿した、という事件の概要は言うに及ばず、まず「インターネットタレント」という表現そのものに反応してしまいました。これは“ワタシメダチタイ”の極致か?という仮説のもとに。
と言うのも、自分が映った動画をサイトに投稿する行為を、「メディアデビュー」と呼ぶ人達がいます。目と耳を疑ったものですが、従来の“マスメディア”に対する“ソーシャルメディア”という観点からすれば、なるほどそこに初参加するのは、すなわち“デビュー”することに違いなさそうです。そう納得している反面、今なお、どこか違和感を拭えない部分はあるのですが…。
それはともかく、自らの力で、無検閲で“メディアデビュー”できる時代になったということ。そうなると次に考えるのは、こればかりは既存メディアと何ら変わりはないようで、やっぱり“視聴者”へのアピール度、になります。その際にあの手この手を考えるのも、従来のメディアと同様です。
この“検閲を通さない自由さ”が革命的な手法につながればいいのですが、逆に社会性の逸脱につながるケースもなくはない。上記の事件は、そういう可能性を示した具体的な例でしょう。
もう3年(?)近く前になりますが、JRAのキャンペーンに『GLAMOROUS CUP(グラマラスカップ)』というのがありました。覚えていらっしゃる方も多いと思います。 あの時、賛否両論が出る中で、“賛”の意見に、「新規ファン獲得のためなら何をしてもいいのではないか」というのがありました。これは「注目されるためには手段を選ばなくてもいい」と解釈できなくもありません。この発想にも、“自称インターネットタレント”の事件が重なってしまいます。
そんなことを思っていたら、6月に“ある本”が出版されました。 自らの、“殺人”という行為を本に書いて出版する――。 上に書いてきたことの究極の形、に思えました。
その内容については読むつもりがないので書きようがありません。 ご遺族の心情といったことも触れないでおきます。どんなに分かったようなことを書いても、すべて空虚になってしまうでしょうから。
何しろ、この本の出版で考えさせられたのは“表現の自由の線引き”といったことでした。表現の枠を外して“自由”まで広めてもいいかもしれません。 これはポルノ漫画の規制云々の話などともつながってくるのですが、考え方の基本として、“一方的に人を傷つける自由”が存在するのかどうか、じゃないでしょうか。そんな“権利”は無論、ないわけですが。 一方でテレビ、新聞、雑誌などの過剰な自主規制が話題になって久しい。この現象は、しっかりとした倫理観に基づいた放送理念や編集方針といったものが統一されていないか、あるいは消失してしまっているか、なのでしょう。 既存のメディアが迷走しては、増殖するネットタレント達の無軌道ぶりも無理のないことになりかねません。
時代の必然のように登場した“ネットタレント”達。彼、彼女らによる動画サイトを用いた表現法というのは、今後ますます変化していくことでしょう。そもそも現在の表現法自体は、すでに古くなりつつあるのかもしれませんし。ただ、ではその“変化”は、はたして“進化”なのかどうか…。 競馬の情報発信という点に置き換えても、今後のバリエーションの広がり方は予測不能です。いずれにしろ取り扱い注意、の案件には間違いありません。
時代の流れ、変化は猛スピードで進みます。これは冒頭に書いた年齢による体感スピードとは関係なく、別の話で、です。 その変化について行こうとするのか、それとも時間の流れを無視するのか。その答えはいつ、どんな形で出るのでしょう。 また眠れない夏の夜が続きそうです。
美浦編集局 和田章郎