『うまい話と購買意欲の相関関係』
このところ競馬場の映像モニターに、“悪徳コーチ屋”の話が出てきます。いや実際には、悪徳コーチ屋ではなく、マルチ商法まがいの巧妙な詐欺の話。 とりあえずJRAホームページでは、 “悪質な予想・情報提供業者(高額な情報料・過大広告等)および勧誘メールにご注意ください!” となってまして、それに引っ掛からないように、と注意喚起を促すビデオ映像を、競馬場で流しているわけです。
まあ確かに私どもの周囲にも、その手の話にはおよそ無縁そうであるにもかかわらず「騙された」という人がいらして、聞かされたこちらがビックリして戸惑ったりすることがあるくらいですから、被害に遭われた方は少なからずいらっしゃるんでしょう。
しかし、そもそもの話。平成の競馬ファンにとっては、“コーチ屋”という言葉自体が死語、なんじゃないでしょうか。「一体何をする人?」って感じでしょう。 かくいう私も“コーチ屋”全盛時代は知りませんで、学生時代、たまたま(?)迷い込んでしまった浦和競馬場で、一瞬、出会った見知らぬお兄さんがそうだったのかな、というくらい。
昭和60年頃でしょうか。本格的な夏になる前の、それでも暑い日でした。 浦和競馬場の正門を入ると、下が白いズボンで上がペラペラの黒っぽいシャツという、いかにもそっち系の職業らしき格好をした見知らぬお兄さんが、「社長っ」と手を上げてズカズカ近づいて来たのです。 こちらは下はよれよれのジーンズを履いて、上はいわゆる空色系のトレーナー姿。そんな見るからに地方から出てきた貧乏学生をつかまえて、「社長」も何もあったもんじゃありません。近くまで来たお兄さん、私の顔を視認するなり、まさに“踵を返す”という表現ピッタリに、90度以上の鋭角でクルッと反転して去っていきました。
当時は、それこそ「今の何だったんだ?」とキョトンとしたものですが、しばらくして「今のが話に聞いたコーチ屋の類だったのかな」と思い至りました。で、「誰彼とお構いなしに相手にしようっていうんじゃ、なるほど斜陽なんだなあ。それにしても、俺みたいなのに声かけちゃって、上司(?)がどこかで見ていて叱られたりしてないかな」などと余計な心配をしたことを覚えています。
競馬ブックに入社後、先輩達にそんな話をすると、「南関東にはまだ居るんだなあ。中央じゃすっかり見なくなっちゃったけど」 と言われたものでした。ということはつまり、かつてはJRAの競馬場にも居た、ということ。ついこの間まで、場内の壁に「コーチ屋に注意」なんて書かれたポスターがあったのもその名残りでしょう。
で、その先輩達から聞いた、昔々のある“コーチ屋”さんについての興味深い話があります。
馬主席を徘徊して狙いをつけた人に強引に推奨馬を教える。でもって、その馬が走れば手数料ならぬ“ご祝儀”を手にする。
この、ごくごく“基本”的なコーチ業を行う際に、馬鹿正直に正攻法を取っていては商売にならない、ということで、リスクを分散する手法を編み出したコーチ屋さんが居たそうなのです。
馬主Aさんにxを、馬主Bさんにはy、そして馬主Cさんにzという馬を教える。 そうしておいてレース後、x、y、zのいずれかの馬が馬券になった時、その馬主さんのところへ“ご挨拶”に伺う、という段取り。
無論、先輩達がその手法の汚さ、下劣さを言いたいのは重々承知のうえで、悪知恵が働くもんだなあ、などと妙に感心させられる部分もありました。そして、“競馬”を取り巻く人間達には様々なスタイルの人がいる、と教わった気がしたものです。
そのコーチ屋さん、馬主Aに教えたx馬が走ったというのに、うっかり馬主Cさんのところに挨拶に行ってしまって、その手法が露見してしまった、というオチまであって、苦笑させられたのですが。 まさに大昔のエピソード。
そう考えれば考えるほど、時代は変わったなあ、なんてことを感じますが、似たような事例がまったく消えてしまったわけではないようです。
最近、競馬場のモニターでもやってますが、“データ”と呼ばれるファクターの分析による馬券指南。 データ1の場合はvとw。データ2ならxかy。データ3に目をつけるならz。 このように提示しておいて、x馬が勝てばデータ2が的中…って、なんだか似てるように感じるのはおかしいでしょうか?
言うまでもなく、“データ”と呼ばれるファクターを馬券購入の判断基準にすることに異論があるわけではありません。そもそも“データ”って何?という議論はさておき、馬券購入においては、何を根拠にしようと自由であるべきですからね。 ただ、結局のところは何を根拠にするにしろ、結論を出す人の取捨選択のセンスが問題なのであって、行き着くところ予想を他人に教える人の、“人そのもの”の資質が問われる、ということではないでしょうか。 これ、当たり前のようでいて、案外、うっちゃって考えられているように思います。とどのつまり、人間性が問われる。
競馬の場合、式が間違っていても答えが合うことは珍しくありません。でも、結果がすべてで答えこそ重要、という考え方があるとすれば、その答えを出す決断力。これがギャンブルにおける勝負強さだとか、持ってる持ってない、の話につながるのでしょう。 勿論、好き嫌いは別にして…つまり式が間違っていることに目をつぶれるかどうかは別問題として、ですけれど。
そういう馬券を買う側の感覚、として、「例外込みの“数字を駆使した理論”で導かれた結論に大金はかけられない」と言う知人がいます。「それならむしろ胡散臭くても厩舎情報だったり、自分の目で見た馬の様子、とかの方が騙され甲斐がある」とも。 彼は常に自分のノウハウで馬券を購入し、しょっちゅう的中馬券を手にしている、いわば“名人”に分類できる人物ですから情報に流されたりはしません。といって必ずしも“データ”重視ではない、ということのようです。大体、ひと口に情報と言いますが、データとて広義の“情報”には違いないですから。 このあたりの馬券購入者の心理状態。つくづく難しいものだと思います。巧妙な詐欺師というのは、そこを突いてくる、のかもしれません。
ともかく、「予想者の“人間性”が問われる」という仮説と、“馬券の購買意欲”との関連性について、深く考えさせられる意見には違いありません。
「大金を賭けることだけが競馬ではない」「あくまでもゲーム」 そう言う人もいらっしゃるでしょう。 結構。 ですが逆に、だからそれも競馬である、とも言えます。 大金を賭けることが大事で、決してコンピューターゲームで得点を競うと言った類のモノではない、と考える人も確実にいらっしゃるということです。
そういうファンに、これからどのように競馬の面白さを提示していくのか。
このところ競馬場で流されている2パターンのモニター映像を見ていると、そういう問題が突きつけられているように感じられてなりません。
まあ何にしても、対象が何であれ「必ず〜」なんて謳い文句は、公序良俗、社会性、人間性…とにかく諸々について怪しいですから、どうぞお気をつけになってください。
ですからね、競馬の予想は専門紙。 これ、正攻法です。
美浦編集局 和田章郎