『多様化の弊害』
また一年が終わろうとしています。例によっていろいろなことがありました。様々な情報が飛び交い、厄介な取捨選択が迫られることも少なくありません。いや勿論、競馬に限ったことではなくて。 そういう中で、自分的には『価値観の多様化』ということを、改めて考えさせられた一年でもありました。『多様化』と言えば耳障りはいいのですが、ただの『混沌』に過ぎないのではないか、と。とどのつまり、単に「本当に良い物と、そうではない物の区別がつかなくなっているだけではないのか」と…。
そもそもこの『価値観の多様化』、いつ頃から耳にするようになったんでしたか。 ニューヨークとかロンドン、ウィーンなど、古くからの国際都市は移民も多く、様々な生活様式・文化が混在しているので、価値観が人それぞれになるのは当たり前のよう。実際に住んでいる人達にしてみれば「今更、価値観の多様化と言われても…」といった感じがあったりして。 となると、近年殊更に『価値観の多様化』が言われるのは日本独自なのでしょうか。具体的な時期を探ると、高度成長が終わってバブルがあって。で、世界的には東西冷戦が終結して、という1990年頃からかもしれません。その後のインターネットの普及が『多様化』を加速させたのは言うまでもありません。 何しろ国全体が経済面で豊かになって、物があふれるようになりました。生活に必要な身の回りに物も多種多様になって、個人の“個”の部分に光が当てられるようにもなりました。“十人十色”と言いますが、この“個”を尊重する意識が、さまざまな価値観を生み出すことにつながっていった、というふうに言えるかもしれません。
無論、こうでなくてはダメ、といった偏狭な価値観の押し付けは、大きく言えば国家、身近で言えば組織や人の“有り方”として、どこか未成熟な印象を受けます。万事に先例大事のような旧態然とした考え方が、旧弊と呼ばれるものにつながれば、新しい時代に向けた自由闊達な発想が妨げられることになりかねません。 その意味でも、生きていくうえで選択肢が増えたことは悪いことではありません。目の前に提示されたことについて、掘り下げて考えるのはエキサイティングなことです。それが目的となれば、生きる糧にもつながっていきますし。
ただ、昨今の風潮は、どうも個人が主張する“価値観”が、単なる個人の“好き嫌い”と混同されていないか、と感じられて仕方がないのです。
12月5日に亡くなった第十八代中村勘三郎さんについて、翌6日の朝日新聞『天声人語』で、「藤娘は造花より生花がいい」とフラワーデザイナーに持ちかけられた際に、「女形そのものが造花ですから」と拒んだ、というエピソードが紹介されていました。 それで思い出したことがあります。 歌舞伎の女形、と言ってすぐに思いつくのは坂東玉三郎さんですが、このお方も何かのテレビ番組で「“型破り”と“型なし”は違う。そこのところを間違ってはいけない」とどなたかに教わり、それを肝に命じて精進してきた、とおっしゃっていました。 お二人の話は、根底の部分で共通した思想が感じられて興味深いです。価値観が多様化したと言われる時代に、いや、だからこそかもしれません。お二人が日本の伝統芸能を継承する立場の方達だ、ということを考慮に入れても、です。 というのも、その点で言えば、むしろお二人は古典の世界にあるであろう古いしきたりにとらわれず、ややもすれば敷居が高くなりかねない伝統芸能を、我々一般庶民にもわかりやすく伝えようとした、ある意味、旧弊を破ろうとした方達。それでも、自分達の守るべきものが何であるかを、自分達の立ち位置、軸、として理解していらっしゃる。そのうえで模索された新しい表現の仕方を我々は楽しませてもらっている。上のエピソードからは、そんなことを感じさせられます。 だからこそ、いつまでも面白い物として多くの人に愛されている…。
今年のJRAのキャンペーンに「GLAMOROUS CUP(グラマラスカップ)」というものがありました。これについては弊社週刊競馬ブック誌上に限らず、いろいろなところで意見が交わされたようなので、ここでは詳細に触れることはしません。ただ『価値観の多様化』の弊害について、ひとつの例として取り上げるのみです。 まず最初にこの論争(?)が始まった時に、率直に思ったのは「“AKB”と“エヴァンゲリヲン”は良くって、“グラマラスカップ”だけが問題なのか…ふーん線引きが難しいもんだなあ」ということでした。 そうしたら、「新規ファン獲得のためなら何をしてもいいのではないか」という、まるで正反対の発想がネット上などでも散見できて、正直、ひっくり返ってしまいました。金儲けのためなら手段を選ばない、という傍若無人な、一歩間違うと終末的な社会の恐ろしい感覚と酷似していると感じたので。 『価値観の多様化』は、個人の“好き嫌い”に止まらず、やっていいことと悪いことの区別も鈍らせているのか、と…。いやまあ、ここではさておくことにしましょう。
ともかく『多様化した価値観』の中で、「グラマラスカップ」のようなアプローチの仕方があって構わない、という考え方が生じる。とりあえずは、まあいいでしょう。 ただ、それを主催者がやっていいのかどうか、という判断基準の有り方は、全くの別問題。これ、ひどく重要な部分に思えるのですが、案外、真剣に語られませんでした。週刊競馬ブック11月19日発売号の“一筆啓上”を担当された吉田直哉氏が、怒りで書く手が震えているかのような筆致でもって取り上げておられて、いろいろなところに波紋が広がった、とは聞きましたが。 「そんな小難しいこと、いちいち面倒くさい。価値観が多様化したんだからさ。いいじゃんどうだって」 もしかしてこの感覚ですかね、重要なことを棚上げにしてしまう傾向って。そういうこと、あらゆる分野で見られるようで、どうも気持ちがスッキリしないのです。 だからこそ、先に書いた歌舞伎界の巨人達の言葉が、先達が発した言葉であるにもかかわらず新鮮に感じられ、そこに貫かれる姿勢が眩く、胸を打つのかもしれません。
ん?いや、ひょっとすると、また別の見方もあるのかも…。 「堕ちるところまで堕ちて、堕ち切ってから再生がある」と書いた無頼の坂口安吾先生ではないけれど、『価値観の多様化』が導く混沌世界は、もしかすると次の世界へのプロローグ的に用意された過渡的な時代に位置するのかも。ということは、今の時代を生きる我々は、まだ堕ち切っていない…?
そんな時代に生きる我々は、では一体何を拠り所にすればいいのでしょう。 難しく考えることなく、時代の流れ、空気に任せて、ごく自然に?それはそれで結構ですが、どうにも自分にはできそうにありません。 『価値観の多様化』した時代に、『混沌とした価値観』が蔓延る社会に生きているからこそ、自分の軸はしっかりと持っていたい。“良い物”と“そうでない物”の違いをハッキリと認識でき、正しく評価できる“真贋”を磨いていきたい。 一年の終わりに、心底から思い、新しい年への今更ながらの思いとして、記しておくことにしました。 もしも、そういう姿勢から外れてきたな、と感じられたら、どしどしご指摘願います。よろしくお願いします。 今年もお世話になりました。
美浦編集局 和田章郎