『峠を越えると望月の牧』
浅間山から佐久平を俯瞰
まだ上信越自動車道が開通する前、東京方面から信州に入るために越えなければならなかったのが、かの有名な碓氷峠でした。徳川の治世までは関所があって、文明開花の波と共に赤レンガの鉄道橋ができて、昭和に入ると大女優が麦わら帽子を投げたあの峠(本当のロケ地は北信の小谷村だけど)。勿論、上信越自動車道でも碓氷峠は通るのですが、“峠越え”の感覚などまるでありません。なぜなら、気がつかないうちに峠の上を通り過ぎてしまうから……。 振り返ってみると、当時は関越自動車道を高崎ICで降りて国道18号へ。奇峰・妙義山に向かって走り続け、横川までたどり着いたところでひと休み。その横川のドライブインで峠の釜飯を食べた後、愛車のギヤを何度も何度も入れ換えながら、つづら折の峠道を登り切ったところが軽井沢でした。この国内有数の避暑地まで登ってくると、眼前にドーンと姿を現すのが浅間山。その雄姿を初めて目の当たりにした時は、恥ずかしながら、ひとり車の中で快哉を叫んだものでした。 その軽井沢の中心地を抜けて更に車を走らせ、小諸付近にさしかかると、進行方向の左手、南南西に向けて大きく眺望が開けます。諏訪富士の異名を持つ秀峰・蓼科山の広大な裾野に開けたその地こそ佐久平。山々からの伏流水と清流千曲川の恵みを受けて、鯉の養殖で全国に名高いこの地ですが、古代から中世にかけて、そこは国内有数の馬産地でもありました。
▼望月の駒は逢坂の関を越え…… 古代日本で天皇の勅旨により拓かれた官営牧場、それが“御牧(みまき)”と呼ばれるものでした。中央集権の制度が整うに連れ、中央と地方を結ぶ重要な交通手段としての馬、いわゆる伝馬の需要が急速に増えたこと、また、国内を統治するために軍馬の需要も増えたこと。それらが各地に御牧が拓かれた社会的背景らしいのですが、その数は信濃の国に16牧、甲斐の国に3牧、武蔵の国に4枚、そして、上野の国に9牧(以前紹介した下総御料牧場の前身・取香牧は、これらより時代が下った江戸時代の開設)。つまり、古代の日本ではこの長野県こそが、まさしく馬産の中心地だったという訳です。ちなみに、大陸から優秀な種馬や育成の技術を導入して品種改良が図られたとのことですから、そのあたりは現代の競走馬の生産にも通じるものがあると言えるでしょう。 さて、その信濃16牧のうちの4牧が置かれていたのがこの佐久平。その4牧の中心、いや、信濃16牧の中心的な役割を担っていたのが望月牧でした。この望月牧で生産された馬は“望月の駒”として知られ、毎年、朝廷にも20頭の貢馬(くめ)を献上していたという記録があるようです。望月の駒を題材に、多くの歌人が歌を残している史実からも全国にその名を馳せていたことが窺い知れます。その代表的なものが、都に運ばれて行く望月の駒を詠んだ紀貫之の歌。
あふ坂の関の清水にかげみえて いまや牽くらむ望月の駒
望月の駒の蹄跡を辿って、碓氷の関から逢坂の関へ。現在の大津市逢坂にある関蝉丸神社の境内に残るのが関の清水の跡(写真右下の木の囲い部分)
東国から都へ入るための要衝だった逢坂の関では、毎年8月に信州から引かれてきた貢馬をここで引き渡す行事があったのですが、平安の歌人・紀貫之がその様子に思いを巡らして詠んだのがこの歌。逢坂の関に湧き出る泉に月の光が射し込み、望月の駒もその水面に姿を映しながら都へと曳かれているのだろうか、という意味らしいのですが、名神高速を馬運車が走る現代とは大違い。ゆったりと時間が流れる平安期の、何とも優雅な光景が想像されます。
傍らには紀貫之の歌碑も
ところで、東国の各地に点在していたこれらの御牧ですが、その後、律令制度の崩壊と共に官営牧場としての使命は終焉を迎えます。以降は地方豪族、そこから派生した武士団の私有の牧へと姿を変えていったとのことですが、この望月牧を支配していた望月氏の支流が近江の国に移って発展したのが近江望月氏。甲賀忍者の筆頭格「甲賀の望月」となったのでした。
野馬除跡。案内板がなければ御牧の遺構とは気がつかない
▼色深まる牧の跡 前述したように、小諸付近の高台から一望できるこの望月牧の跡。しかし、最初にこの地を訪れた時は、“御牧”というものの存在すら知らなかった私。強烈に記憶に残るのは、傾き始めた西日を眩いばかりに照り返す千曲川。思わず車を停めて眺めたその清流の向こうに、かつては駿馬が群れを成していたことなど想像だにできませんでした。愛車のラジオからは常勝西武軍団を相手に独り闘う岡林の熱投が……。もう20年も前の話です。
望月牧の存在を知ったのはそれから間もなくでしたが、同時に、史跡として残る物がほとんどないことも知り、この望月の地を訪れることはありませんでした。 山歩きのために信濃路を訪れ、せっかくここまで来たのだからと佐久平まで足を延ばしたのは10月も半ばを過ぎたこの秋のこと。しかし、そこに広がっていたのは伝え聞いた通りの光景でした。馬の姿が消えた今となっては御牧の面影が残っているはずもなく、かつての牧草地は田畑になり、集落になり、そして生活道路が走り……。 そんな中で、在りし日の御牧の姿を僅かに偲ばせるのが、“御牧が原”の地名と“野馬除(のまよけ)”と呼ばれる土塁と柵の跡でした。千曲川を中心として、基本的には3つの河川で囲まれていた望月牧。それぞれの河川が天然の要害となり馬が放牧地から逃げ出すことを防いでいたのですが、これを補うための人工の柵や土塁も必要だったようで、この地には現在も野馬除の跡が点在しています。勿論、木製の柵などはとっくに朽ち果てて形跡を留めません。案内板がなければ、自然の地形として見過してしまうような遺構ですが、その土塁の上に立ってみると、色が深まり始めた里山の風景と冷たい風が何とも心地よい……。御牧として隆盛を誇った1000年前から変わっていないものがあるとすれば、それはこの紅葉と秋の風なのかも知れません。
美浦編集局 宇土秀顕