『梅雨がくれば〜思い出す』
約2カ月後に週刊誌の表紙を飾った七夕賞のゴール前写真。左端にポツンと映っているのがビゼンセイリュウ。新潟の直線競馬を裏焼きした写真ではない(笑)
一年でもっとも星空が期待できない季節を迎えています。星の祭典がわざわざこんな時季に行われるのは何故なのか? その理由はよく分りませんが、いずれにしても、たいていの年はまだ梅雨明け前の7月7日、この日が七夕であることは昔からの決まりごと。したがって、七夕の名を冠する七夕賞が梅雨の最中に行われるのも必然。その梅雨が演出したのが七夕賞のレース史に残る逃走劇でした。 ……と、そんな前振りで当時のことを振り返ってみるわけですが、なにぶん、それは私が競馬ブックに入社する前のできごと。意図的ではなくても、強烈な思い込みによって記憶を捻じ曲げてしまうことがないように、ここは慎重に当時の小社週刊誌を引っ張り出し、故・住吉彰造先輩の『観戦記』を熟読。それを30年前の自分の記憶に照らし合わせて振り返ってみました。
▼片脚をかけながら…… 昭和56年7月5日、学生だった私は夏の福島競馬をテレビ観戦していました。そのテレビ画面の中では、みんな揃って馬場の大外を回っています。通常見慣れているレース映像と比べると、あまりにも奇異に映るその光景。理由はこの時の馬場状態にありました。雨に祟られっぱなしだったこの年の夏の福島開催。早速、前述の観戦記を参考にさせてもらうと、福島出張のトラックマンが常泊する宿舎では7月を迎えてもなお、コタツで暖を取っていたとのこと。いかに異常な天候だったかがこの記述からも窺い知れます。ちなみに、この福島開催8日間で施行された計82レースを調べてみたところ、たったひとつの稍重馬場(4日目第1Rのダート1000m戦)を除いて、残る81レースはすべてが重馬場か不良馬場。開催が進むに連れて馬場の傷みは増す一方で、これも観戦記によると、七夕賞前日の土曜日はまるで「泥田のような」馬場状態だったとのこと。まさに、異常事態とも言える夏の福島開催だったのです。
ところが、それまで降り続いていた雨がこの七夕賞当日にはパタッと止み、まるで「春先のような爽やかな風」が馬場を吹き抜け、7R以降は不良馬場から重馬場まで回復。それでも8日間にわたる道悪競馬で馬場が荒れていることに変わりはなく、荒れ方がより激しい内目を嫌って各馬がスタート直後から外へ外への展開。そんな中でただ1頭、ビゼンセイリュウだけが「スタートするや迷わずに内ラチ沿いへ」進路を取っての逃げ。直前のオープン特別で10着に敗れ、このレースでは11頭立ての10番人気だった伏兵が、内ラチすれすれの「固い所が僅かに残った馬場」に、まるで「片脚をかけるかのような感じで……」レースを先導。一方、1番人気のハワイアンイメージをはじめとした残る10頭は、内ラチにへばりつくこの伏兵の存在などまったく眼中に無いかの如く、「コーナーを大きく弧を描いて」レースを運びます。他の10頭に完全に無視されたビゼンセイリュウ。しかし、ビゼンセイリュウもまた他の10頭のことはお構いなし。結果、「コーナー、コーナーで蛯沢の勝負服の青さだけがやけに目立つ」、そんなレースになったのです。
そして、「4角でエスパルの伊藤栄が気がついた時には、4〜5馬身の差がついていた。そこで勝負あった」の記述通り、最後はビゼンセイリュウが2番手追走の4番人気エスパルに2馬身半差をつけて、余裕の逃げ切り勝ち。福島4戦4勝の皐月賞馬ハワイアンイメージは見せ場なく8着、2番人気フジマドンナは最内枠から一旦最後方まで下げて、外から追い上げたものの3着。馬連も、馬単も、3連複も、3連単もなかった時代ですが、単勝配当は3150円、枠連で6320円という波乱の幕切れでした。
▼異なる見解 ところで、正確を期すために小社週刊誌以外の資料を探っていると、このビゼンセイリュウの勝利に関しては、一旦エスパルに先頭を譲り、抜き返しての勝利といった記述も見受けられました。内のビゼンセイリュウと外のエスパル、両者があまりにも内外離れて走っていたために、どちらが先頭で走っているのか、その判断が非常に難しかったのかも知れません。それにしてもプロの競馬記者の目も惑わせてしまったこの七夕賞。それだけ、“普通じゃない”レースだったということでしょう。 ちなみにビゼンセイリュウはこの七夕賞が唯一の重賞勝ち。同年11月の福島民報杯10着を最後に引退しており、これが現役最後の勝利でもありました。
こちらはレース翌週に掲載された直線の写真。内と外の離れ方が半端じゃなかったことがよく分かる。
美浦編集局 宇土秀顕