『4度目のオークス>ダービー』
第79回日本ダービーでのディープブリランテの勝ち時計2.23.8は平成16年のキングカメハメハと平成17年のディープインパクトの2.23.3に次ぐ速いものだったが、前週の第73回オークスではジェンティルドンナがそれを上回る2.23.6で勝っている。これまで、オークスの方がダービーより時計が速かったのは両レースが春の東京に固定された昭和28年以降15回あるが、その多くはダービーが道悪でオークスが良馬場の場合。昨年のオルフェーヴルのダービーは不良馬場だったのでエリンコートのオークスより4秒8も遅かった。そのほか近いところではロジユニヴァース、メイショウサムソン、ネオユニヴァース、ジャングルポケットの勝ち時計がオークスより遅いが、それぞれ馬場の渋化が原因。ダービーとオークスが揃って良馬場で行われたのは30回(昭和28年以降)で、そのうちオークスの方が速かったのは今年を含めて4回しかない。
平成7年のダービーはタヤスツヨシが2.27.3で勝った。オークスはダンスパートナーの2.26.7。 この年はサンデーサイレンスの初年度産駒がクラシックを迎えた最初の年。皐月賞のジェニュインを加え、春のクラシック4つのうち3つをサンデーサイレンス産駒が制した。皐月賞以外の3つをディープインパクト産駒が制した今年は“サンデーサイレンス時代”が始まったその年になぞらえることができるかも知れない。それはさておき、タヤスツヨシはダービー制覇後、神戸新聞杯と京都新聞杯で1番人気に推されながら5、7着と敗退、菊花賞でも5番人気6着に終わった。結局それが最後のレースとなり、翌年から種牡馬入り。種牡馬としてはダービーグランプリのマンオブパーサーに代表されるダートでの活躍馬を多く出したが、シャトル供用先のオーストラリアではG1ヴィクトリアオークス勝ち馬ホローブリットを送った。これが牡牝を通じての代表産駒で、その直仔ランリョウオーは輸入されて準オープンで活躍している。 一方のダンスパートナーはオークス制覇後にフランス遠征を敢行し、G3ノネット賞で2着、G1ヴェルメーユ賞では6着に終わった。帰国すると菊花賞で牡馬を相手に1番人気の支持を受け、坂の下りから大外を進出して先頭を窺ったものの5着に終わる。それでもタヤスツヨシには0秒3先着した。その後、一線級で牡馬相手に5歳いっぱい戦い、京阪杯、エリザベス女王杯の重賞勝ちを積み上げた。繁殖入りしてからは、長く産駒に一流馬の出現がなかったが、9年目の種付けで生まれたフェデラリストが今年の中山金杯、中山記念を連勝。大阪杯2着を経て宝塚記念を目指している。
昭和52年はラッキールーラのダービーが2.28.7、リニアクインのオークスが2.28.1だった。 ラッキールーラは秋を迎えると中山のオープンを勝って京都新聞杯で2着、1番人気に支持された菊花賞ではプレストウコウの15着に大敗する。その後は大型(ダービー時534キロ、ピーク時566キロ)ゆえの脚部不安に慢性的に悩まされ、5歳時の札幌日経賞勝ちを加えたのみで引退。ひとつ上がトウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスのTTG世代、同い年にはクラシックから締め出された最強馬マルゼンスキーがいたのが不運だったともいわれるが、そんな時代にダービーを勝つことができたのだから、むしろ名前通りラッキーだった。種牡馬としてはきさらぎ賞のトチノルーラー、帝王賞2着のダイカツジョンヌを出し、平成2年に韓国に輸出された。 リニアクインは秋緒戦に神戸新聞杯を選ぶと、オークスで2着に下したアイノクレスピンの逆襲を受け、京都牝馬特別5着を経て臨んだエリザベス女王杯でも桜花賞馬インターグロリアの巻き返しにあって2着に敗れた。それでも、翌年の金杯(京都)ではダイフクジュ以下の牡馬を一蹴。ライバルのインターグロリアは翌年のマイラーズCも勝ち、アイノクレスピンがエリザベス女王杯の前のオープンでマークした京都芝1600m1.33.5のレコードは平成4年のマイルチャンピオンシップでダイタクヘリオスの1.33.3まで15年破られることがなかったので、牝馬全体のレベルが高かった世代といえる。しかし、残念ながら、リニアクインに限らずアイノクレスピンもインターグロリアも繁殖牝馬としては目立った子孫を残せていない。ただ、アイノクレスピンがニジンスキーの種を得て生んだ持込馬アイノセントスキーは種牡馬となり、産駒のフラッシュシャワーが平成3年のフラワーCに勝っている。
昭和42年はアサデンコウのダービーが2.30.9、ヤマピットのオークスが2.29.6だった。ただ、ダービーは良馬場発表であっても直前の雷雨がいくらかの影響を及ぼしていた可能性はある。 アサデンコウはダービーのレース中に骨折しており、再起を図ったが結局かなわなかった。ヤマピットは京都の新馬戦で芝1100m1.05.5のレコード勝ちを収めると、デイリー杯3歳Sまで圧倒的な逃げ切り勝ちを続けた。阪神3歳Sでは逃げられずに牡馬2頭の後塵を拝したが、4歳牝特(桜花賞トライアル)を逃げ切り、桜花賞では見せ場なく12着に敗れたものの、オークスは保田隆芳騎手を背に逃げ切り。これが5月28日に亡くなった浅見国一調教師にとっては開業4年目の初クラシックだった。ちなみにオークス以外の全レースでヤマピットの手綱をとったのは池江泰郎騎手(元調教師)で、オークスのあとも快足を武器に大阪杯、鳴尾記念を逃げ切り、オープンの夕月特別では阪神芝1600mのレコードとなる1.35.4で逃げ切った。昭和44年の金杯(京都)2着を最後に引退、繁殖入りして初仔ボージェストを生んだ直後に腸捻転で世を去っている。直系は残らなかったが、ひとつ下の半妹ミスマルミチが生んだイットーは高松宮杯、スワンSなどに勝って桜花賞馬ハギノトップレディ、宝塚記念のハギノカムイオーを生み、孫のダイイチルビーは安田記念を、曾孫のマイネルセレクトはJBCスプリントに勝っており、そのよすがは今に伝わっている。
ここまで時計の比較をキーに過去に遡ってみると、ダービーやオークスを勝つのも大変だが、その後もまた大変ということが分かる。エリート中のエリートでもこれだけ苦労するんですね…ということはともかく、より重要なことを忘れていませんか? そう、直接牡馬を負かしてダービーを勝つ牝馬がいちばん強い。平成19年のウオッカは記憶に新しいところだが、その前には昭和18年にクリフジが牡馬を一蹴、秋のオークスも含め11戦全勝の成績を残した。殿堂入りも果たしたこの名牝については昨年の馬事文化省受賞作「消えた天才騎手」(島田明宏著、白夜書房)で1章が割かれているので参照されたい。その6年前、昭和12年のダービーも牝馬のヒサトモが制した。2着にも牝馬のサンダーランドが入っている。ヒサトモはオークス馬トウカイローマンの5代母、ダービー馬トウカイテイオーの6代母としても知られるが、写真の立ち姿を見る限りトウカイテイオーにびっくりするくらいよく似ているので、探してみてください。血統軽んずべからずと視覚で分かります。
栗東編集局 水野隆弘