『三里塚の春は大きいよ』
「三里塚の春は大きいよ」とは、明治、大正、昭和を生きた文化人・高村光太郎の詩『春駒』の冒頭の一節。この詩は高村光太郎が下総御料牧場のあった三里塚の地を訪れ、その牧歌的情景を詠んだもの。時は大正13年。ゴミゴミとした東京の旧下谷区西町(現在の東上野)に生まれた高村光太郎から見れば、御料牧場の春は詩に詠むほど広大なものだったのでしょう。妻の智恵子も、この北総丘陵に広がる空なら、あるいは“本当の空”と感じたかも知れません。
▼消えた春駒の情景 それはさておき、この地は今訪れても実に広大。しかし、『春駒』で詠まれた“雨ならけむるし、露ならひかる緑のじゅうたん”はそこになく、“尾を振り乱して駆ける栗毛の3歳”の姿も勿論、見当たりません。あるのはコンクリートの滑走路と、尾翼を振り乱すことなく(強風の日を除く)、整然と離着陸するジュラルミンの旅客機。以前にこのコラムでも少し触れましたが、明治期から三里塚の地で続いていた下総御料牧場は昭和44年に栃木県へ移転。その跡地に創られたのが新東京国際空港でした。地元住民を巻き込んだ空港建設の反対運動はご存知の通り。のどかだった『春駒』の情景も、流血の闘争史と共に消え去ってしまいました。が、僅かに御料牧場の時代を偲ばせるのが、当時の牧場事務所にある三里塚御料牧場記念館です。
このマロニエの小径の先にあるのが三里塚御料牧場記念館
この記念館、こじんまりとしたものですが、入場無料にもかかわらず展示されている資料はなかなかのもの。我々競馬関係者の場合、下総御料牧場といえば競走馬生産の黎明期を牽引したというイメージがあまりに強烈ですが、馬産は数ある事業の一部。牛、羊、豚、鶏の飼育にはじまり、畜産加工品の生産、更には農耕事業……。この記念館に行くと、御料牧場の事業が多岐にわたっていたことがよく分ります。 とはいえ、館内に入ると気になるのは、やはり馬産関係の資料。かつての牧場全体図を見ると、そこには大きな馬場がふたつ。ひとつは、ほぼ正円を描く1マイル馬場と名づけられたもの。これは空港の敷地外、現在は住宅地の中にある公園になっていて、公園を周回する道路にその名残りが。天皇陛下の馬見所が設けられていたように、この馬場は“馬を見せるためのもの”という意味合いが強かったようです。 そしてもうひとつが、我々もよく見慣れた楕円形の馬場。日常の調教馬場として使われていたようですが、こちらはもう完全に現在の空港の敷地の中。記念館では当時の牧場全体図と今の地図を照らし合わせることができるのですが、それによると、ちょうど空港の第一ターミナルから滑走路にかけてこの調教馬場が重なります。ジェット機の爆音轟くまさにその場所で、かつては若駒が蹄音を響かせ、日々鍛錬に励んでいたのでしょう。
空港から飛び立つ旅客機。おそらく、この写真のあたりにかつての調教馬場があったと思われる。
▼栗毛の正体を考えてみる ところで、少々気になるのが『春駒』に出てくる“栗毛の3歳”の正体。サラブレッドなのかアラブなのか、それ以前に、競走馬なのか乗用馬なのかも分りません。そもそも、実在の“栗毛の3歳”を前に読まれたのかどうかも不明だし、もしそうだとしても、年齢や毛色を誤認していた可能性だってないとはいえません(高村先生に失礼か……)。 ただ、話としてはそれがサラブレッドの競走馬で、それなりに活躍した馬であれば面白い……。で、暇に任せて調べてみたところ、大正13年の3歳、つまり大正11年に下総御料牧場で生産されたサラブレッドを6頭ほど発見しました(下記参照)。こんなに一生懸命に調べモノしたのは実に久し振りのこと……。
明治22年から大正11年まで、長きに亘って下総御料牧場の場長を勤めた新山荘輔獣医学博士の銅像。奇しくも雲凪が生まれた年に御料牧場を退任している。
前述したように、この詩が詠まれたのは大正13年。種正、星旗、星若、星友など御料牧場の礎を築いた8頭の繁殖牝馬が輸入される以前のことで(これら基礎牝馬の輸入は昭和元年〜7年)、競走馬の生産に限っていえば、ライバルである民間の小岩井農場が一歩も二歩も先を走っていた時代。これら6頭の母親がすべて小岩井農場産だった事実からも、当時の両者の関係が窺い知れます。 まあ、それはともかく、調べがついた6頭の中で一頭だけ栗毛に生まれてきたのが、血統名が雲凪という名の牝駒。競走成績や繁殖成績は確認できませんでしたが、手元の資料にはホワイトスターという競走名が記載されているので、少なくとも大正13年までは順調に成長し、競走馬登録もされたものと思われます。ちなみに、その雲凪のひとつ上のお姉さんは、後世にその名を残すアストラル。競走馬として帝室御賞典に優勝、繁殖入りしてからはカブトヤマ、ガヴァナーと2頭のダービー馬を送り出したあまりに偉大な姉。その陰で、消息も分らぬままに歴史から消えてしまった妹。 でも、妹には妹の生き方がある。姉のように名前は残せなかったけれど、あの『春駒』の詩の中に、春陽を一杯に浴び、緑のじゅうたんを溌剌と駆け抜ける姿を残したのだと考えれば、何とも夢のある話ではないですか。だからこそ、ここでは、あの3歳の栗毛は雲凪だったということにしておきます。
美浦編集局 宇土秀顕