『残って欲しい物』
半年に一度、いや、もう少し頻度は高いかもしれない。ともかく、一定の間隔で足を運ぶ本屋さんが東京駅近くにある。意外に思われてしまいますかね。まあね、私だってね、禁断症状が出て訪れる場所というのは、何もギャンブル場に限らないのです。
ただ、何かしらの目的があって、つまり書籍とか文具等を購入するつもりでそのお店に行くわけではありません。購入したい書籍が決まっている場合は、近所の、それこそ全国チェーンの本屋さんに行けば大抵、事は足りますから。そういう本屋さんに在庫がない場合は、ご存知の通りネット通販という手があります。これが便利なことは重々承知しているのですが、大抵は本屋さんで探すことにしているのです。貴重な時間をロスしているようでいて、決してそうでもありません。
ネット通販の場合、目当ての書籍があったら、それはもうピンポイントにヒットして購入できるんですが、“余録”というのがあまりない。余録と言ってはわかりにくいかもしれません。つまり、ただそれだけ、になりかねない。何かしら別の、まったく考えもしなかった対象にヒットする機会が極端に減ってしまうと感じるわけです。
そんなことはない!という意見もわかります。インターネットだとほぼ無尽蔵に情報を得ることができますもんね。しかし、ね。ネットで得られる情報というのは、往々にして自分が必要なモノか、或いはその周辺のことに限られませんか?
「この本を購入された方は、こういう本も購入しています」 こんなガイダンスが表示されて、画面に映し出された他の書籍の表紙の画像を見ても、“私の場合は”なのかも知れませんが、取り立てて食指をそそられたりはしません。購入しようとした書籍の類似品として、なるほど新しい情報を入手することにはなりますが、やっぱり同じ方向性のモノが多い。
これ、溢れているありとあらゆる情報の海を泳いでいるようで、実は知らないうちに近視眼的に情報を選択してしまってることになりませんか。そして恐ろしいことに、逆にどんどん視野が狭くなりかねない…。 勿論、すべての皆さんがそうだと言ってるのではありません。陥りやすいこととして、私自身が戒めにしたいと考えているだけです。 そして、そういったことを回避する意味も含めて、本屋さんに足を運ぶわけです。
購入した本の隣に、先のネット通販のように同じようなジャンルの本が並んでいたとしましょう。その時、背表紙に書かれたタイトルの字体を見て、手に取って中身を覗いて見たくなるケースがあるのです。装丁そのものは勿論のこと、全体の質感や紙やインクの匂い等々、書棚の前に立つだけでも五感は刺激されますが、それらの諸要素が想像力を掻き立ててくれる。いやおうなくワクワク感、ドキドキ感が湧いてきます。その結果として、思いもよらなかった対象に出会えることがある。これこそ手前勝手な感覚かもしれませんが、情報ではなく想像の海に身を委ねたかのようになれる。それが何よりも(目当ての本が狙い通りに見つかることも嬉しいですが)心地良い。
そんなだから、本屋さんをうろうろすると時が経つのを忘れていることがあります。その点では確かに貴重な時間を浪費しているかも。けれど、五感が痺れるような何かしらの刺激というのは、体全体を使わないと得られない、そんなふうにも思います。ネット通販にとどまらず、電子書籍なるモノも定着しつつある昨今ですが、本屋さんに足を運ぶという行動パターンを取らなくなったら…いや、考えないことにしましょうか。“アナログ親父”の謗りは、甘んじて受け入れます。
ま、そうは言っても、電子書籍がこれから主流になっていくのは、大きな時代のうねりとして必然なんでしょうね。それはこんな私でもイメージできます。でも、いよいよ本当にそうなっていくと、本の世界(出版業界)はいろいろ大変というか、ひっくり返る常識がたくさん出てきそうです。 例えば、上に書いた“装丁”のような魅力的な仕事はなくなりますね。いや、別の形態になると言った方がいいのかな。それから、確実なのは「何千枚の大作」なんて作品についての宣伝文句が無意味になる。表紙の字体にしても、端末画面上のフォントの規格に準じたモノに限定され、画一化することになるでしょう。いや、表紙の扱われ方が変わるのか…ん?そもそも品物としての“本”もなくなるんでしたね…。とにかく、ちょっと考えただけでも今とはまったく違った世界が形作られそうです。 そして、この話を進めていって怖くなるのは、電子書籍が当たり前の世界では、本屋さん自体の存在意義がなくなったりするのだろうか、ということ。
なるほど刻一刻と時代が変わっていく過程で、切り捨てられたり、なくなっていくモノが増えるのは避けられないんでしょう。でも、自分の住む町から本屋さんがなくなるというのは、どことなく違和感を覚えてしまいます。悲しいとか寂しいとかの情緒的なことではなく、不便だという実質的なことでもなく…。 特別にコミュニティの場として使わなくても、誰だって心地良く、ゆったりした時間を過ごせるスペースは(もしかするとこれは贅沢なことなのかもしれませんが)、住環境には絶対に必要じゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。私にとっての本屋さんは、そういうふうにも機能しているので…。時代の流れは流れとして、一方でその流れに抗って『残って欲しい物』、『残しておきたい物』をはっきりと認識し、そして主張していくことがいよいよ必要になってきた、そんなところでしょうか。
いやまあ、もうおわかりかもしれませんが、この話は要するに、他人事ではなく気になってしまうことなのです。長いこと紙媒体の世界に浸っていると、どうしても、ね。一般の新聞各社がネットで記事を配信する時代に、我々競馬専門紙は読者の皆さんから、どんなふうに捉えられ、どういう“在り方”が望まれるのか、と。 いろいろな可能性を模索しつつ、様々な状況への冷静な対応…。つまりは時代が大きく変わる時に必要となる発想、感性等が我々に求められるのでしょう。そうしながら多くの皆さんに『残って欲しい物』にリストアップしていただければ、なんてことを思ったり願ったりせずにはいられないのです。アナログ親父の戯れ言、に過ぎないかなあ…。
美浦編集局 和田章郎