『劇場としての競馬場』
数日前、久しぶりに舞台を観てきた。ある女優さんの初舞台。都内の某劇場で、そこに行くのはそれこそ20年ぶりくらい。初めて足を運んだ時からすると、ずい分と古くなったなあと感じましたが、それでもやっぱり、劇場というのはいいものです。
一体どこがどういいのか、と問われると、それはもう行ってみてもらうのがてっとり早い。いやまあ、身も蓋もない言い方になりますが、そういうことになります。
「劇場には魔法がかけられているの。建物の中に入った途端、誰でもその魔力にかかってしまうのね」みたいな意味のことを言った女優さん(水谷八重子さんだったと思う)が居ましたが、その感じでしょうか。これを突き詰めると、公演に自前の紅テントを用いる唐十郎さんや、「芝居小屋を作るところから演劇はスタートする」という劇団・第七病棟の理念に通じるわけですが、それはひとまずおいておきましょう。
例えば、劇場で観た芝居がテレビ放映されることがあります。比較した場合、確実に劇場で観た時の方が印象がいい。私は、そうです。ですから皆さんも、テレビで放映される舞台劇を観て、つまらないと感じたら、それはテレビだから、という言い方ができるかもしれません。何せテレビの前では、魔法にはかかっていない状態なのですから。
競馬場はどうでしょうか。演劇を構成する要素はいろいろありますが、そのひとつに「舞台」があって、それを包む「劇場」というハコモノがあるとすれば、レースを観るための「競馬場」は、それに当てはまりそうです。
東京競馬場の現在のスタンド(フジビュースタンド)のグランドオープンの際、JRAから宣伝用のパンフレットが刊行されました。新スタンドの概要、紹介に始まって、東京競馬場の歴史などを紹介したレーシングプログラムサイズの小冊子。たくさん配布された形跡がなく、あまり目にする機会がなかったかもしれませんが、とにかくその中に、競馬ファンにもお馴染みの、作家の浅田次郎さんが寄稿されたエッセイがありました。
お爺様(自伝的小説とされている「霞町物語」にも登場したと思う)に連れられて、ご自身が初めて東京競馬場に来た時のエピソードを軸にした話。そして、以来、競馬場に来ることが無上の喜びとなり、「もしかすると自分は“競馬”が好きである以上に、“競馬場”が好きなのかも」といった心象風景でもって、新スタンド完成の喜びを表現し、また記念パンフレットに寄せた祝辞(?)に替える…。いやもう、見事過ぎて打ちのめされると同時に、あまりにも我が意を得たというのか、膝を打ったというのか、何しろ元気を頂いたものでした。そんなふうに思っている先達がいらっしゃる、というだけで。
先に紹介した“魔法”という言葉を使うと、引いてしまう方もいるかもしれませんが、観る、聴くといった五感に訴えかけてくる対象に触れる際、その世界を包むハコモノには、理屈を超えた“何か”が存在する、と思っています。劇場に負けず劣らず(いやむしろそれ以上かも)、スポーツの観戦会場においてもその現象は起こります。そうでなくては、野球でもサッカーでもラグビーでもボクシングでも陸上でも…とにかく何でも、あの血が逆流するような、ノドがカラカラになるような、一定時間息を止めてしまったせいで起きる酸欠状態とか、おそらく誰もが経験したことがある興奮の極限状態を説明することができなくなってしまう。
「テレビでもそういう状態になれる」。そう豪語される方の中で、でも現場に行ったことがないって方はいないはず。現場で体験した興奮状態が記憶に刷り込まれていることで、テレビ観戦でも疑似体験が可能になる、そういうことではないでしょうか。勿論、会場でナマ観戦するのは物理的に困難であるというケースはあるでしょう。それはそれ。無茶なことを申すつもりはありません。ここで言うのは、せっかくナマ観戦できるチャンスを持っている人に、「現場に行かなくても楽しめる」と斜に構えられるのは寂しい、ということ。本当に面白いモノを否定してしまっては、真の楽しみから遠ざかるばかりのように思えます。
我が競馬場の場合、現場に足を運んで“魔法”がかかるかどうか、それは保障できません。でも、そういう瞬間があるかもしれない、ことは間違いありません。例えば三冠馬になろうとする馬がパドックに登場する際、観たこともない特別なオーラに包まれているかもしれない。「そんなの馬券の当たり外れには関係ない」ですか?、「ゲームとしての競馬においては何の意味もない」ですか?
そのオーラ(のようなモノでもいい)が、居合わせたすべての人の目に映るかどうか。これもわかりようがありません。しかし、もし少しでも何かが感じられたとしたら、その光景はやっぱり他に替え難い特別なモノになると思うのですが、いかがでしょうか。
美浦編集局 和田章郎