『藤井嘉夫氏のこと』
7月24日、藤井嘉夫氏が定年退職を迎えた。その夜、しみじみとした気持ちになって何の気なしにツイッターでつぶやいてみると反響大。「競馬ブックの顔」にとどまらず、「関西競馬の顔」(しかもインパクトのある)だった藤井氏の引退は、競馬ファンにも大きな節目となったようだ。「みなさんおおきに。ホナ、さいなら」と言って滋賀県を後にした藤井嘉夫氏のこと、助けられたひと言や、勉強させてもらったことを、少し皆さんにお話してみたい。
といっても、私は94年以降の藤井氏しか知らない。ブックにきたのが昭和44年夏(=69年夏)というから、私が入社した94年の時点ですでに大ベテラン。第一印象はもう「怖い」しかなかった。まず、見た目がおっかない。それから愛知→神奈川→東京でしか生活したことのなかった私には、テレビでしか聞いたことがないコテコテの関西弁。まあ、とにかく怖かったです。
入社して2週間ほどが過ぎたある日。会社の屋上で、入社して間もなく声をかけられ今では大親友のOちゃんと夕涼みをしていると、藤井氏が上がってきた。社宅の4階に住む藤井氏は風呂上り、屋上での体操を日課としていたようで、たまたま出くわした。缶ビールの1、2本は軽く引っ掛けていたと思う。
当たり障りのない会話を二言三言交わした後、私にこう向けた。「やめるなら、今のうちやで」。その頃の私といえば、右も左も分からない状況。牛乳配達や新聞配達人と同じく夜明け前に出社する日常に、聞いてはいたけど、えらいところに来たもんだ。果たしてやっていけるのかと自問自答する日々。その迷いを藤井氏は見抜いていたのだろう。考えているほど甘いもんじゃない、今ならやめても皆すぐ忘れるとか、そういうことだったと思う。言えないけど、心の中でこう答える。(だけど、ここまできてやめられないです)と。この時、私の中でひとまず「やめる」の選択肢が消えたのです。
藤井氏は本紙担当者として調教を見ていた。だから担当コースはなかったが、障害レースで本紙の印を打っていたから、栗東ABコースを採時する私にたびたび意見を聞いてくれるようになった。しばらくして私が週刊誌、当日版で障害競走のポイントを書くようになり、それがキッカケとなり、まずは重賞・特別競走を、そして平場のレースもというふうに本紙担当も譲り受けていく……。
忘れもしない99年5月の京都ジャンプS。◎ファイブポインター、○カブトフドオが他を引き離して3角を回ったにもかかわらず、4角で揃って落馬してしまったことがあった。本紙を任されて間もない頃、1週間考え抜いての渾身の印。今ではためらうような大金を2頭につぎ込んだ勝負レースの結末が◎○の落馬なんて、今思い出しても涙が滲む出来事だ。
「ヒラタ(私の旧姓)、落馬はしゃあない」
藤井氏はレース後立ち上がり、振り返ってこう諭す。以上。それに続く言葉はない。
今でも落馬があると、私は思う。落馬まで予見できるか? その馬1頭だけのことならまだしも、落馬のアオリまで予想できるか? 落ちた当人、大怪我を負っているかも知れない騎手や馬のことを考えれば、落胆ばかりもしていられるか?……と。
藤井氏語録。「よろしくどうぞ」「好きな馬買うてください」は有名だが、私にとっては「ヒラタ、落馬はしゃあない」ですね。
藤井氏はちょっとした所作からテキトーに見えるが、その逆で、真面目で几帳面な人だった。仕事中はいっさい無駄口を叩かず机に向かい、月曜も朝早くから、せっせとレースの成績を自分のノートにまとめていく。会津流文焼のマグカップには各種ペンが1本。いつぞや私がピュッと1本ペンを間違えて入れてしまったら、競馬場から帰ってくるなり「誰やこれ触ったのは!1本余分なのが入っとる」と怒られて、そんなことまで数えているのかと驚いたものだ。私のことを旧姓の「ヒラタ」(ここは関西弁で)と呼び続けたのも、氏の真面目さの表れだと思う。「会社は仲良しグループやない。そやから、下の名前で○○とか、○○ちゃんとか呼ぶのはおかしいやろ。ましてやお前は男とおんなじふうに仕事するんだから、呼び捨てでええねん。お前もな、後輩は○○君とか言わずに呼び捨てにしたらええ」とのこと。そこはポリシーだったみたいです。(注釈:何でヤマダとならなかったかといえば、我が社には山田一雄御大がおられたためだと思われます)
藤井氏の字はめちゃめちゃ汚くて新人泣かせ。もはや字とは言えず、何となくの輪郭の似たもの。「していた」はただの波線だし、「好」はどこからどう見ても平仮名の「ぬ」。下積みの長かった西村TMと私はこの人の原稿に悪戦苦闘し、ふたりの間でぬ馬体(=好馬体)、ぬ気配(=好気配)などと言い合ってよくネタにしていた。しかし、文章は味わい深い。7月25日発行号の挨拶文を読んでいただければ分かっていただけると思うが、自分の言葉で伝える力に長けているのだ。誇張がないから、ストレートにくる。これは、私を含めた後輩TMは大いに見習うべきとこだと思います。
藤井氏は厩舎回りのTMが本紙担当者に提出するアップダウン(いいか悪いかのジャッジ)をキッチリと本紙の印に反映させていた。普通印がつくであろう人気馬を…(無印)にしたり、これはちょっと足りないだろうという馬に大きな印をつけたり、というのはしょっちゅうだった。ある先輩TMは、「ダウンで提出して本紙が無印にして、勝たれたりすれば、それはもう恥ずかしくて申し訳ない気持ちでいっぱいになるもの。本人が一番分かってる。それだけ信頼してくれるのなら、これからはもっと頑張っていい情報を提供しようと思うもんだ」と言っていた。騎手への取材もそう。その騎手が人気馬に乗ってようが、人気薄であろうが、或いは騎乗馬がなくても取材に足を運ぶ。都合のいい立ち回りはそこにはない。信頼関係を築くとはこういうことなのだ、最近改めて思う。
退職から1週間が過ぎた1日(月)の夜に電話をいただいた。何でも1週間働きっぱなしで、この日ようやく家で食事ができるぐらいに片付いたとのこと。ほっとしたのか少しアルコールも入っていたようで、ご機嫌な口調で小倉サマージャンプや小倉記念のことなんかも話題にのぼった。奥様によれば、「すごくよく働いてくれたのよ。こんなに動いてくれたのは38年ぶり」とのこと。滋賀を離れて、街中での暮らし。最後の挨拶文に「競馬以外でも好きなようにやってきた。妻のおかげやと思っている」とあったが、奥様への孝行は始まっているようだ。
近いうちにお酒をご一緒したいです。生ビールに始まり、焼酎、日本酒を経て、最後は瓶ビールで締める藤井流で。
栗東編集局・山田理子