2010年天皇賞(秋) 回顧
直線半ばで先頭に立つと鞍上のスミヨンが1度、2度と後ろを振り返る。迫ってくる馬が見当たらないのを確認してからは馬なりでゴールへ。まさに余裕綽々、力の違いを誇示する内容でブエナビスタがG1級レース5勝目を挙げた。牡馬混合G1は昨年の有馬記念を皮切りにドバイ・シーマクラシック、宝塚記念と3戦連続して2着に甘んじていたが、4度目のチャレンジにして初勝利を飾った。これまでの3走を振り返ると牡馬相手ではワンパンチ足りない印象を拭えなかったが、この日は別馬のように強かった。翌日の一部の競馬マスコミはその勝ちっぷりを“スミヨン効果”とした。たしかにそれもあっただろうが、ドリームジャーニー、ダーレミ、ナカヤマフェスタの姿がない舞台では取りこぼせなかったはずであり、強行軍だった上半期の疲れを取るべく完全リフレッシュした効果も大きかったと思われる。
昨年のオークス前に松田博資厩舎を覗いたときは、顔に雨粒が当たって濡れるのを嫌がり、担当の山口慶次厩務員の背中に顔をゴシゴシとこすりつけていたブエナビスタをこのコラムで紹介(2009年、“雨嫌い”)したが、早いものであれから約1年半が経過。当時はまだまだ幼さの残っていた馬がここまで強くなったかと思うと感慨深いが、天皇賞後の記念撮影で何事もなかったようにケロッとしてポーズをとっているあどけない表情は当時馬房で見たものと変わらない。馬体そのものはデビュー時と比べてそう大きく変化したとも思えないだけに、心肺機能が優れているだけでなく精神力の強さも並外れているのだろう。
クリストフ・スミヨン騎手に最初に会ったのはいまから9年前の2001年。短期免許で来日した彼が栗東トレセンで挨拶回りをしていたときに知人から紹介されたのだが、当時の彼はまだ20歳になったばかり。型通りの簡単な会話を交わしながら、野心的ないい眼をした若者だなと思った。この年は降着処分を受けたこともあって際立った成績を残せなかったが、随所で才能豊かなプレーを披露。見守る側を唸らせた。帰国してからはその言動の派手さでバッシングを受けた時期もあったようだが、20代にしてすでに凱旋門賞を2勝するなどトップジョッキーとしての階段を上り詰めた。天皇賞の翌日にはブリーダーズCに挑むべく渡米、その後は南アフリカに遠征すると聞いたが、今後も世界の檜舞台で活躍を続けることだろう。
個人的なネタでいささか恐縮ながら、彼が初来日した年に伝説の“スミヨシ事件”が起きている。毎日放送の○栖アナが司会をしていたラジオ中継の本番中に「今週来日したスミヨシ(住吉?)騎手ですが、村上さん、スミヨシなんて日本風で親しみやすい名前ですね」と真面目な顔で振ってきた。この話も以前に紹介(2004年、“伝道者と予言者?”)したが、アシスタントの女性と私は抱腹絶倒、泣き笑いして言葉が出ず放送事故が起きそうになった。放送終了後は来○アナに友人、知人からメール、電話が殺到。翌週のトレセンでは競馬関係者から散々冷やかされたと聞いた。その後、この番組の聴取率が上がったという話を小耳にはさんだ記憶があるが、リスナーが増えたとしたらそれはひとえに来栖アナの貢献である。 強い馬が強いレースをしてファンの期待に応える。これが競馬の基本だと頷きつつテレビ画面を見ていて呆れたことがひとつ。地上波、グリーンチャンネルの両方で中継されたレース後のインタビュー内容がひどかったのだ。喜びを全身で表現するスミヨン騎手の言葉の大半を通訳の人間がカットしていたのである。騎手によって個人差はあるが、単なる歓びの表現だけでなく、その人間の人生観、馬との信頼関係といった様々な想いが伝わってくるのが勝利者インタビュー。その際の貴重なコメントがファンに正確に伝えられなかったのは残念だった。察するに天皇賞後に通訳を務めた人物は英語こそ喋れても競馬の専門用語に対する知識がなかったのだろう。なにか裏事情があったにせよ、そういった人物を大レース担当の通訳として採用したJRAの姿勢はいただけない。G1レースを締め括るセレモニーでもあり、勝者とファンとが一体になってレースの余韻を味わえる貴重な瞬間をもっと大事にするべきではないか。
競馬ブック編集局員 村上和巳