気遣いについて
私が厩舎を回り始めた頃、馬の小便をいつもバケツにとる厩務員がいた。馬任せで自由に排泄させると寝藁が汚れて馬房内が不衛生になるだけでなく、馬自身が尿にまみれるのが可哀想だというのがその理由だった。下痢などで体調を崩しているとき以外、馬の糞は固形なので処理しやすいが、尿は周辺一帯に滲み渡って悪臭が残る。そこでバケツに放尿するよう教え込んだとのことだが、この習慣を身につけさせるには並々ならぬ苦労があった。厩務員は仕事を終えて自宅に帰ってからも数時間毎に馬房へ駆けつけて馬にバケツを差し出した。その行為は昼夜を問わないのは勿論、休日も返上した。そのため厩務員同士の慰安旅行などには一切参加しなかった。そんな献身的な努力を続けた結果、愛馬は差し出すバケツ以外に放尿しなくなり、彼の馬房からはトレセン独特のアンモニアのすえた匂いが消えた。
馬の精神面についての考察が進んでいない時代、極論すれば競走馬を道具としてしか考えない人間が多かった時代背景を考えるとすべてが馬本位の姿勢はとても新鮮だった。厩務員は担当する馬を次々と立派に成長させた。その手腕を認めた調教師から期待馬を任されるようになり、定年までの間たくさんの重賞を勝った。しかし、差し出されるバケツを待ち詫びて放尿する馬の様子を見ていると疑問も湧いた。清潔な馬房で寝起きできるのは歓迎としても、生理現象は状況や体調次第で変化する。決まった時間以外に放尿できないのは馬にとって苦痛ではないか。もうひとつ、馬は生涯トレセンで過ごせないのだから引退後はどうなるのか。環境が変わってもひたすらバケツが差し出されるのを待ち続ける姿を想像すると気持ちは複雑だった。この件で親しい厩務員に意見を聞くと賛否両論あったが、「馬にそれだけ手間暇をかけること自体が至難」との点で誰しもが一致していた。物言わぬサラブレッドを一人前の競走馬に育て上げるのは想像以上に難しく、まずは人馬の相互信頼が不可欠なのだろう。
この春、ある厩舎関係者の奥さんが亡くなった。人づてにその事実を知ったのは2ヶ月ほど経ってからのことだった。ご主人には現場時代に大変お世話になっただけでなく、自宅に招かれた際にはいつも奥さんに優しく気遣っていただいて恐縮してばかりだった記憶が甦る。葬儀は故人の強い遺志により密葬で執り行われたと聞き、参列できなかったのも仕方ないと納得した私は百か日の法要にあたる日に個人的に花を贈ろうと決めた。訃報を耳にしたからにはとても知らぬ顔で過ごすことはできなかった。恩返しの意味を込めてなんらかのアクションを起こすべきだと考えたのである。しかし、直前になって気持ちが大きく変化。予約していた花屋さんにキャンセルの電話を入れた。
お世話になったせめてものお礼に花を贈りたいとの気持ちは素直なものだったが、冷静に考えると自分の感情に流された発想でしかない。つまり、相手を気遣う心理が欠落していることに気付いたのだ。「周囲の皆さんを巻き込んでお騒がせすることなく、家族だけで見送って欲しい」と言い残したという故人の気持ちを尊重するなら、たとえ百か日の法要であったとしても私が勝手に花を贈るのはどうか躊躇われたのだ。死に直面した際に彼女がどんなことを考えたか想像したときに、十数年もお会いしていない私のことを思い出したとはまず考えられない。その程度の存在でしかない私なのに、自分が納得したいがためだけに相手の気持ちを無視して花を届けるのは傲慢でしかない。そう考えて自然な流れで挨拶に出向ける節目の時期にお宅に伺い、その段階で故人に対する想いを伝えようと決めた。
今年の夏は出だしから馬券成績がサッパリで後半は休養していた。秋競馬が開幕する今週から復帰するつもりでいるが、馬券を的中させるための日々の努力を放棄している現状では前途多難としか言いようがない。随分長く競馬と関わり合って生きてきたというのに自らの感性に任せてすべてを片付けようとするスタンスはいまも昔もなにひとつ変わっていない。人間の本質などそう変わるものではないが、人に対しても馬に対しても、幾つになっても真の気遣いができる存在でありたいとは思う。
競馬ブック編集局員 村上和巳