4月中旬に岐阜県に住む二十代の競馬ファンKさんからメールが届いた。過去の競馬の歴史的な場面を趣味で検証しているとのことで、いくつかのレースについて問い合わせてきたのだが、資料を調べずに即答できるものもあれば私個人として事実関係を正確に把握していないものもあって調べ直すのにかなりの時間を要した。以下の内容に関しては真相というよりも私自身の個人的な見解を書いているものであり、その点をご理解いただきたい。
「私が生まれた年にあたる1982年のスプリングSで八百長騒ぎがあったと競馬好きの歳の離れた会社の上司に聞きました。どんな騒ぎだったのか、また真相はどうだったのか教えてください」
かなり前の話だというのに未だに話題になっているのかと少々驚いた。Kさんはこのレースの概要について『Wikipedia』で調べたとのことなので念のために検索してみた。この『フリー百科事典・Wikipedia』は私も大変重宝しているが、さすがに競馬を深く掘り下げるのは無理があるようで、サルノキングが“逃げ馬”のカテゴリーに入っていたり管理調教師が谷八郎氏だったりして読んでいて苛つく部分もあった。この件をかいつまんで説明すると、1982年のスプリングSはクラシック制覇をめざす関西の有力馬サルノキングとハギノカムイオーが出走して1、2番人気の支持を集めた。そして、結果は展開に恵まれた後者が勝ち、前者は4着に終わった。個人的にはそれだけのことと認識しているが、かなりの競馬マスコミが八百長疑惑と騒ぎ立てた。
騒ぎになった背景にややこしい事情があった。サルノキングの馬主はハギノカムイオーの共同馬主でもあったのだ。前者はすでに皐月賞、ダービーに出走できるだけの賞金を稼いでいたが、後者はこのレースで権利を取らないとクラシックに出走できない立場。だからこそ“後者”を勝たせるために台本ができていたとの裏読みが生まれた。たしかに前者は離れたしんがりを追走したが、これは鞍上が乗り馬の末脚を最大限に引き出すために時折見せる騎乗法で、我々関西人には見慣れたシーン。東上後の東京4歳S、弥生賞でまともに引っ掛かった愛馬の精神状態を考えて“このままではクラシックを勝てない”と作戦を練ったのは当然とも思えた。
ただ、鞍上にとって誤算がふたつあった。まずはペースが想像以上にスローになったこと。流れる風景と肌を刺す風の感触でそれを読み切った彼は3角で馬にGOサインを出して外から一気に進出した。勝利にこだわるからこそ早目に仕掛けて動いたのであり、そんな強引な戦法でも差して勝つだけのポテンシャルを持っている馬だった。しかし、ここでふたつ目の誤算が生じる。4コーナーでサルノキングが不運にも骨折したのである。競走を中止することもなく惰力で4着に入線した姿を見て故障に気付く人間はほとんどいなかった。そのために検量室前は結果に戸惑う人、人、人でごった返した。多少の騒ぎになったのは仕方ないとして、腹立たしかったのは関東のある調教師が叫んだ“こんな競馬は八百長だ”とのひと言。競馬を生業にしている人間が“八百長”などという言葉を軽々しく口にすること自体が信じられなかった。翌日のスポーツ各紙には“疑惑の騎乗”と大見出しが躍った。もちろん、鞍上は八百長説を否定した。後日に関西所属の一部の調教師や騎手が新聞紙面で彼を擁護するコメントを発表したが、それは小さな扱いの記事としてしか取り上げられなかった。
「あのとき、オーナーはなにひとつ注文をつけなかった。もし、カムイオーを勝たせろという指示が出ていたら、俺はそれに逆らってカムイオーを潰していたさ。もちろん、騎手をやめる覚悟でね。サルノキングは重戦車みたいな体つきで、末脚の切れは桁が違った。無事だったなら?済んだことあれこれ言うのは好きじゃないが、皐月賞もダービーも楽勝していたはず。それぐらい飛び抜けた能力を持っていた。当時の過熱した報道をどう思うかって?まずは競馬記者のレベルが低すぎるのが問題。予想やコラムを受け持って自分をプロだと言うなら、せめて馬やレースを正確に見られる眼を養って欲しい。もともと競馬の真実を追及するというよりもスキャンダルで人目を引く。それがマスコミの本質なんだからしょうがないと言えばしょうがないが」
“競馬の本質を追及するよりはスキャンダルで人目を引く”─スプリングSの数日後に田原成貴騎手が漏らした言葉はずっと私の耳に残っている。あれ以来、競馬記者ならスキャンダラスな記事でファンを煽るのではなく、競馬の本質に迫りつつ、その奥深さを伝えられるような文章を書くように努めてきたつもりだが、満足できるような原稿を書けないまま年齢ばかりを重ねて現在に至っているのが残念である。なお、次週はKさんから寄せられた質問の第二弾、“1989年桜花賞・シャダイカグラ&武豊の出遅れ”を取り上げる予定。
競馬ブック編集局員 村上和巳