・ヴィータローザ ・エアシェイディ ・コスモバルク ・スウィフトカレント ・ディアデラノビア ・バランスオブゲーム ・メテオバースト
・アドマイヤメイン ・アペリティフ ・タマモサポート ・ドリームパスポート ・フサイチリシャール ・メイショウサムソン
1982年春、関東の雄・モンテプリンスが栗東へ遠征してきた。シーホーク×ヒンドスタンの配合は当時としては超一流の重厚な良血で馬体にも王者の風格を漂わせる素晴らしい馬だった。しかし、“無冠の帝王”と呼ばれるだけあって、とにかくビッグレースとは無縁だった。1980年の三冠レースは、不良馬場の皐月賞で4着、ダービーがクビ差2着、そして菊花賞もクビ差の2着。大きなストライドで力強い走りをするが、ゴール前の甘さが泣きどころだった。古馬になってからも天皇賞(秋)がハナ差の2着で続くジャパンカップでは米国馬に完敗の7着。このあたりの時期になると、モンテプリンスはもうG1を勝てないまま競走生活が終わるだろうとの声さえ出はじめていた。 このモンテプリンスの主戦騎手が吉永正人だった。1961年に東の名門松山吉三郎厩舎から騎手デビューした彼は華やかなトップジョッキーではなかったが、時として度肝を抜くような激しい騎乗を見せる個性派として認知されていた。アッと驚く大胆な逃げを打ったかと思うと、次のレースではポツンと離されたしんがりから強烈に追い込んでみせる。型に嵌らない彼の大胆なプレーは見守る側を虜にした。詩人の寺山修司を筆頭に多くのファンが彼を熱烈に応援していた。しかし、デビューから20年以上が経過しているにもかかわらず、この吉永もまたG1とは無縁だった。 この春、天皇賞をめざして西下してきたモンテプリンスの臨時担当を命じられた私は小躍りした。あの吉永正人に取材ができる、話ができる。そう考えただけで胸が弾んだ。当時は直前輸送などとても考えられない時代。関東馬が関西のビッグレースに使う場合にはひと月ほど前に栗東トレセンへ入厩して環境に馴らせながら本番に向かうのが常だった。輸送に長時間を費やすという道路事情の悪さだけでなく、競走馬の精神面についての考察もいまほど進んでいない時代だった。栗東トレセンの関東馬出張馬房で初めて会った吉永正人は寡黙で物静かな人間だった。張り切ってあれこれ質問を繰り返す私に対して最低限の返事をするだけ。もっと細かいことを聞きたい、本心を引き出したいと焦る私の取材は空回りしてばかり。最後は黙って愛馬の馬房の前に立つ彼を遠巻きに見守ることしかできなかった。くぼんだ目、そげた頬からは減量の厳しさが感じ取れた。 栗東に滞在するモンテプリンスには厩務員と調教助手が付き添っていて、追い日だけ美浦から吉永正人が稽古をつけにきた。そのため、取材時間はいつも限られていた。他の記者との囲み取材が嫌いな私はいつも彼がひとりになるまで待った。時にはもう時間がないと取材を断られることもあったが、彼が栗東にやってくるたびに他の仕事を後回しにして徹底的にマークした。週報や攻め時計はもちろん、必要と思える資料をすべて用意して彼に提供。自分を印象付けようと努力した。現場記者にとっては取材をしていい原稿を書くことだけでなく、相手に自分の存在を認知してもらうのも大切なことなのである。しかし、何度会っても彼の態度は初対面のときと変わらなかった。冷たさ、無愛想、無関心……どの言葉でも表現しきれない一種独特の雰囲気を漂わせたままで。 4月29日、京都競馬場では春の天皇賞が行われた。1番人気の支持を集めたモンテプリンスはそれまでの甘さが嘘のようなダイナミックな走りで他馬を圧倒。人馬ともに初めてのG1勝ちを達成した。レースインタビューのために記者席からカンカン場に降りた私は取材の合い間に吉永正人の様子を観察した。勝利インタビューでも表彰式でも笑顔らしい笑顔を見せないその様子にはただ嘆息するしかなかった。しかし、表彰式を終えた直後に驚くことが起こった。騎手控え室に戻る途中で彼が軽く私の肩を叩いたのだ。いや、叩いたというよりは軽く触れたというのが正解だったかも知れない。そして、私と彼との視線が重なった瞬間に軽く目礼をしてくれたのだ。一瞬のさりげない出来事であり、相手の単なる気まぐれだった可能性もあるというのに、それだけで駆け出しの私は有頂天になった。 それ以降にも東京競馬場や京都競馬場で何度か顔を合わせる機会があった。こちらが挨拶をすると黙って頷くだけでその態度は初対面の頃となにひとつ変化がなかったが、それはそれで想像していた通りでもあった。あの表彰式後の出来事があって以来、私の心の中の吉永正人はプラスのイメージとして定着していた。そして、モンテプリンスと彼のG1初勝利の瞬間に立ち会えたということが私にとってはちっぽけながらもひとつの自慢だった。 9月11日、JRAから吉永正人調教師の訃報が届いた。追悼文を師と面識のあった美浦編集局の和田章郎に担当してもらい、週刊競馬ブックで1ページだけの型通りの追悼記事を組むことにした。いま、そのゲラを見ながらこの文章を書いている。調教師としては重賞を1勝しただけの地味な存在でしかなかった吉永正人だが、個性派騎手として活躍しただけでなく、寺山修司が描いた虚構の世界での存在感も含めて、これほどに競馬ファンに夢を与えた人物は他に記憶がない。最後に久しぶりに思い出した昭和の時代の古いJRAのCMの言葉を引用してこの原稿を終わりにする。 「カモメは飛びながら歌を覚える。人生は遊びながら年老いていく」(寺山修司)
競馬ブック編集局員 村上和巳 ◆競馬道Onlineからのお知らせ◆ このコラムが本になりました。 「トレセン発 馬も泣くほど、イイ話」⇒東邦出版HP