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今年になって初めてトレセンへ行った。2月1日のことである。水曜日の午後に出掛けるというのは内勤に変わったここ4年で初めて。時間帯で判るように調教を見に行ったわけではない。この日は朝から雨が降り続き、傘をさしながらトレセンのゲートをくぐった。これからやらねばいけないことを考えながら目的地に向かって歩いていると、ちょっぴり憂鬱な気持ちと一種の好奇心のようなものが入り混じってなんとも奇妙な心理になっていた。そして、数分間でめざす場所に到着した。
私 「こんにちは、競馬ブックの村上といいますが、○○さんいらっしゃいますか」 相手 「知らん、そんなヤツ知らんぞ(奥の部屋から本人の声だけが聞こえてくる)」 私 「ちょっとお話ししたいことがあるので、お時間いただけますか」 相手 「ワシは用がない。帰れ、帰れ」
いきなり「知らん」からはじまって「帰れ、帰れ」コールである。まずはジャブで相手の様子を探ってからストレートを出してくるのが会話の基本だが、いきなりからストレートを打ち込んでくる。う〜ん、これは手ごわそうだ。厩舎取材の担当になったばかりの若い頃だったら「じゃあ、またきます」と意気消沈。肩を落としてとぼとぼと帰ったものだが、こんな修羅場(というほどでもないが)を数知れずくぐり抜けてきた私。この程度の応対でめげるなんてことはまずない。というよりも、むしろファイトが湧いてくるのだから自分でもその図々しさには呆れてしまう。経験はこうまでも人間を変えるのである。
私 「10分、いや5分だけで結構ですから顔を出して話を聞いてください」 相手 「1分でも時間の無駄だ、話なんて聞く気もない」 私 「現場の人間を通して取材申し込みをしたのですが、お断りになったと聞いています」 相手 「そんなことは覚えてない。誰かの間違いだろう(不敵な笑み)」
こんな会話が数分間続いたが、気がつけば部屋にあがって同じ炬燵にもぐり込んでいる私。面識こそあっても過去には挨拶以外の言葉を交わしたことのない相手だったが、雨の中を歩いて冷え切っていた体が温まるにつれて徐々に口の回転が滑らかになり、すっかり相手を自分のペースに引き込んでいる。どことなく若返ったような気持ちになっているのは現場で取材していた頃の感覚が甦ってくるせいかもしれない。
私 「いろんな方に思い出の馬や記憶に残る出来事を聞いているんですが」 相手 「ワシにはなにひとつ思い出がない。物忘れが激しくなってもいるしな」 私 「どうしても取材を受けたくない理由があれば断念しますが、そうでないのなら教えていただきたいのです。G1を勝った愛馬の現役時代の苦労話などは、ファンの方も知りたいことでしょう。気性の激しさ、仕上げの難しさは想像以上だったと思われますが、そのあたりはいかがですか」 相手 「おい、ひとにものを頼むんだったら理由があれば断念しますなんて言うな」 私 「えっ……?」 相手 「そんな頼み方、ワシは好かん。頼むなら押して押して押しまくれ。それがいちばんだ」
この言葉が出た瞬間に心中でガッツポーズ。それからは「いまから早目の晩酌をするから付き合え。ビールを飲まんと話さんぞ」という波状攻撃を「まだ勤務時間中。それに去年、酒気帯び運転でつかまったばかりですから(事実無根)」とアドリブで交わしつつ珈琲三杯でなんとか飲酒は避けられた。出だしこそ手を焼いたが、打ち解けてからは話が弾んで時間の経過を忘れた。帰る頃には心地よい疲労感が体を支配した。競馬という共通語があればこそだが、取材上では難攻不落と思えるこういったベテラン相手に心が通じ合った。そんなときの満足感は何ものにも替え難い。そして、帰宅してから飲んだビールのなんとうまかったことか。
今回は突発的な出来事でトレセンへ出向くことになったが、馬の姿を見られなかったことがなんとも不満だった。馬の姿のないトレセンなんて私にすればトレセンではない。よおし、2月中に一度調教を見に出掛けよう。雪が降らない日で、雨も降らなくて、そう寒くない朝で、もし早起きができればの話だが……。
競馬ブック編集局員 村上和巳 ◆競馬道Onlineからのお知らせ◆ このコラムが本になりました。 「トレセン発 馬も泣くほど、イイ話」⇒東邦出版HP