・ショウナンタキオン ・フサイチリシャール ・アドマイヤムーン ・マッチレスバロー ・ブラックバースピン
・キーンランドスワン ・ブルーショットガン ・カネツテンビー ・ギャラントアロー ・エイシンヘーベ ・アイルラヴァゲイン ・コパノフウジン
私の数少ない自慢のひとつに鼻がある。こう書いたからといってスラリと鼻筋が通っているわけでもなければ形が綺麗に整っているわけでもない。むしろ、いびつでバランスの悪い形が子供の頃からのコンプレックスだった。ならばなにが自慢かというと話は簡単。鼻水や鼻血とは無縁でとにかく健康で丈夫なのだ。振り返ってみると最後に鼻水が出たのは3、4年前までさかのぼる。熱を伴うきつい風邪で意識が朦朧としたことがあって、そのときに2、3度鼻をかんだのが最後の記憶。そして、鼻血を出したのは30年以上も前に「髪が長い」という理由だけで通りすがりのその筋の人間にボコボコに殴られた(いま思い出しても理不尽だが)外傷性のものが一度あるだけ。鼻の粘膜の弱い知人にはいつもうらやましがられているが、まあ、人間ならなにかひとつぐらいは取り柄があるもの。自慢できるのが鼻だけというのは寂しいが、他になにもないのだから仕方がない。
競走馬にとっても鼻は重要である。以前、競馬にそう詳しくない人間に「ビシュッケツって鼻血を出すってことでしょ。どうして馬たちは鼻血を出すとあんなにバテて離されてしまうの?人間だったら少々鼻血が出てもそれなりに走れるのに」と質問された。「基本的に馬は鼻でしか呼吸ができない。だから鼻出血を発症したら、その量の多少によって差はあっても、出血でスムーズな呼吸ができなくなってしまう。まして極限のスピードを要求されるレースにおいては尚更応えるもの。人間みたいに口での呼吸に切り替えられないから」と大雑把に答えた私。風邪をひいて鼻水を流している馬を見たこともあるが、私がトレセンに足を踏み入れた頃ならともかく、いまの時代にそんな症状の馬をレースに使うことはまずない。
その昔、レース当日にはいつも真っ赤なバスタオルを持参して競馬場にやってくる厩務員がいた。彼の担当馬は乗り味が抜群でかなりの能力があると評価されていたが、ひとつだけ問題を抱えていた。普段からよく鼻血を出したのである。調教で速い時計を出すと鼻血が滲み、全力で走るレースともなると顎や胸前が血で赤く染まることもあった。ただ、この馬の場合は呼吸困難になるほどの量を出血しなかった。だから無理をすればレースには出走できた。しかし、レース中に鼻血を出した馬は一定期間の出走停止(外傷性の場合は除く)処分を食う。その出走停止期間も、二度目、三度目と回数が増えるごとに延長される。そこで厩務員は考えた。愛馬がレース終了後に指定された場所にたどり着く前、つまり地下出口から姿を現す前に真っ赤なバスタオルを持って地下道まで迎えに行くことにしたのである。周囲の人間たちに気づかれることなく目的を達成するためには白やピンクのバスタオルでは意味がなかったのだ。
その厩務員の担当馬は出走停止を食うこともなく順調に出世街道を歩んだ。もちろんその陰には関係者の人知れぬ努力があった。調教には工夫を凝らしつつ頻繁に呼吸器や内臓の検査を繰り返し、飼い葉に鼻出血の予防効果があるとされる蓮根類を混ぜた。それでも出血は止まることがなく、はっきりした原因も判らなかった。馬のためを考えれば長期の放牧に出して立て直すのがいちばんだったかもしれない。しかし、一生に一度しか出られないG1レースが間近に控えており、時期も悪かった。事情を知るごく僅かの厩舎関係者だけで協議した結果、トライアルと目標のG1レースを2走させ、それからは放牧に出して精密検査すると決めた。
「3週連続して追い切っても鼻血出えへんかった。動きもええぞ。それなりに人気はするみたいやけど、これなら格好つけるやろ。3着以内なら本番の権利も取れる。この馬で大きいとこいわしたろ思てたが、無事にさえ走ってくれればなんとかなりそうや」―威勢のいい台詞を並べて笑みを浮かべていた厩務員。しかし、レースが終わる頃にはその表情が苦しげに歪んでいた。かなりの人気を集めていた彼の担当馬はレース中にズルズルと後退。離れたしんがりとなって最後には競走を中止。G1挑戦の夢ははかなくも消えた。そして、ほどなくその馬の抹消届けが提出された。重症の肺出血で競走馬として再起不能になったのだった。
これは20年以上も前の話である。人間たちの意識が変わった現代、馬資源が豊かとなり獣医学も格段の進歩を遂げつつあるこの時代にあの馬が生を受けたとしたら、その競走生活はまったく違ったものになっていたことだろう。いまでも年に何回かはトレセンを徘徊する私だが、厩舎に干してある洗濯物のなかに真っ赤なバスタオルを見つけると足を止めてあれこれ考えてしまう。
競馬ブック編集局員 村上和巳 ◆競馬道Onlineからのお知らせ◆ このコラムが本になりました。 「トレセン発 馬も泣くほど、イイ話」⇒東邦出版HP